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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第17回 専業主婦に飽き足らず、さまざまな職種を経て介護職へ 
生まれ育った地域への恩返しとモチベーションの高い高齢者を増やしたい

稲岡美佐子さん(60歳代)
デイサービス ナイス杉並 華クラブ(東京・杉並区)

取材:進藤美恵子

寿退社が当たり前の時代

 生まれも育ちも、阿佐ヶ谷(東京都杉並区)です。幼稚園から高校までミッション系の女子高に通い、大学も女子大で不自由なく育ちました。

 紀尾井町で料亭を切り盛りする明治生まれの祖母がいました。料亭は数寄屋造りで、政治家や著名な方にご贔屓にしていただき、外国からのお客様のおもてなしにも使われていたようです。祖母は、私と海外に支店を出したいという夢があって。私もその夢を受け継ぐつもりでした。

 ところが、私が大学入学を控えた春、祖母はお客様と高遠の桜を見に行く日に、新調した着物を着て支度をして、そのまま脳溢血で旅立っちゃったんです。その後、料亭は母が継ぎましたが、いろいろ支障があってやめてしまった。

 私は、大学卒業後、日本航空で客室乗務員のフライトスケジュールを作る部署で働きました。今考えるともったいなかったと思いますけど、当時は寿退社が当たり前の時代。大学を出ても「就職よりも結婚」という時代だったんです。

水商売もお年寄りのデイケアも似たようなところがある

 出産後、専業主婦として子育てをしながらも社会とつながっていたい願望を捨てきれず、新聞社の英語教育の記事作成や、外資系保険会社のテレフォンオペレーターのアルバイトに。結婚生活は、嫁家先の小姑の軋轢に耐えかね、娘が15歳のときに家を出て、子どもは主人に託して離婚しました。

 その後、韓国との貿易や、秘書代行、ときには夜のママの店のお手伝いの掛け持ちなど、さまざまな仕事を経て、最終的にはインド人ボスの会社で3年間働きました。若いやり手のインド人ボスは、ノーミスの完璧主義者。「ノーエクスキューズ、自分の持てる力で迅速に完璧に仕事をせよ」との厳命で鍛えられました。日本語は達者でしたが、インド人スタッフとは、英語も交え、何とか意思を通じ合い仕事をしたのが、今の現場で、耳の遠い方との意思のやり取りに大変役に立っています。

 私たちの年齢で働くのは、職種が限られるんですね。事務職やオペレーターの方が楽なのかもしれませんけど、それも大体似たり寄ったりだろうなと思ったんです。そんなときに、知人の紹介で介護職の面接を受けました。突然の解雇からのセーフティネットになれば、また、母の介護の勉強になればと軽い気持ちで。介護職は、どっちかというと無理だと思ってたんです。でも、やってみたら“対人”じゃないですか。反応がモロに返ってくるんです。それならそれに、自分もハマってみようかなと思ったんです。

 変な話ですけど、水商売もお年寄りのデイケアも似たようなところがあるんです。みんなわがままです。自分のことを見ていて欲しいし、自分のことを信じて欲しい。それを一緒に感じたりしながら、認めてあげながら介護をすると喜ぶんですね。

介護は結構クリエイティブな仕事です

 華クラブは、利用者8~10人の家庭的なところです。今日も3人の入浴介助をしてきました。自立を目指していますので、私がやってさしあげるのはシャンプーをしたり背中を洗ったり、お風呂の浴槽の中で事故がないように見守ること。

 後は、レクリエーション。漢字の書き取りや二文字しりとりをやったり体操したり、歌を歌ったり、手先を使ってみましょうとか、そういうお手伝いです。

 例えば、カレーのスプーンでピンポン玉を乗せながらのしりとりなど、オリジナルのレクを考えると利用者のノリがいいんですね。目をキラキラさせて。その反応をみながら、飽きてきたなと思うと、新しいものを考えます。結構クリエイティブな仕事です。短時間でいろいろなものを要求されますし、凝縮して身体使い、頭使い、手先使い、歌って楽しませて…。

 今、何を食べたか、何をしたかを全くわからなくなる人が、しりとりをやってもどんどん出てくる。その中で粋な話が飛び出したり。この人たちって、すごいなって思って。教員をした人や一流企業でバリバリ働いた人、戦争中に軍隊にいた人も。もっとご自分たちの体験を、聞き出してあげられたらもっと活性化できるかなと思ったりして。今では、介護を変えたいとも思っています。

 介護職に就いたのは今春ですが、すでに働きながら初任者研修も受講しました。勤務年数に応じて、介護福祉士やケアマネと受験資格が得られたり、福祉用具などのさまざまな資格もあります。さらに資格を取得して、ステップアップもしたいです。

宿題が今、巡ってきたような気がしています

 でもね、ここではいろんなものをもらえるんです。与えるだけじゃなくて。パッーと反応してくれる。若い人たちはそれを知らないから無理かもしれないけど、「ツーと言えばカー」というような。「今ね、東京ではこういうところができてね、俳優が来てね」というと、みんな目を輝かせて聞き入ってくるんですね。それはお互いに情報交換して高めていくことが必要なんだなって思いました。

 懐かしい日本語の言葉づかいも自然と出てきます。「みなさま、ごきげんよう」というような、大正生まれの方たちは言葉が本当に綺麗なんです。「いいなあ」とホッとするんですよね。そして、「ありがとう」って、丁寧に何度も言ってくれるのでうれしいですね。

 私は離婚してしまったので、婚家先の姑の介護ができなかった。その宿題が今、巡ってきたような気がしています。自分のキャリアの引き出しから少しずつ宝物を拾い集めて、モチベーションの高い高齢者を増やしていきたいです。私の好きな音楽や語学、教養も活かして、生まれ育った阿佐ヶ谷に恩返しができたらと思います。

インタビュー感想

 プライベートでは、継母との遺産相続訴訟が勃発。切り貼りされた遺言書の是非を戦った最高裁では完敗という理不尽な結果に。そうした経験から大抵なことには驚かなくなり、来るもの拒まずに自分を変えていったという、稲岡さん。介護を必要とする方々にもきれいごとでない本音があることをよく承知して接することができるというところに、強さや深さがにじみ出ているようです。

【久田恵の眼】
 人生は、困難に満ちています。それが前提です。つまりは、「生きる」ということは、その困難を乗り越えていくということ。乗り越えがいのあるほうが人生は面白いし、自分をあらゆる意味で耕してくれますよね。介護の現場というのは、困難を乗り切る力で、自分を耕してきた方がなぜか磁石に吸い寄せられるように集まってくる不思議な場所、そんなところでもでもあります。