介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第5回 美容師からクラブホステス、介護ヘルパーへ
介護ヘルパーは、私の波乱に満ちた人生を支えてくれた仕事です
福島恵子さん(63歳)
すばる介護センター(東京・港区)
取材:久田 恵
まさかの時のヘルパー
娘が10歳の時、夫がわけあって、目の前から消え、戻ってきませんでした。それまでは、私って、何の不自由もない裕福な生活をしていた人なんです。大きな戸建ての家に住み、私は専業主婦で、夫は運転手付きの自家用車に乗っていました。そんな状態から、いきなり突き落とされ、娘を抱えてたった一人で自活していかねばならなくなりました。
まさに、天国と地獄。
その時、私は、49歳でした。でも、「どうしよう」と思ったとき、「あっ、そうだ、ヘルパーの資格があったんだわ」と思ったのです。
夫が、やはり、以前、突然いなくなった時があったんです。その時、娘の幼稚園の先生の知人が、「宅老所を開設したいが、家を貸してくれる人がいない」というので、当時、大きな家に住んでいた私は、8畳二部屋を貸しました。その時、私もヘルパーの資格をとったのです。
ほんとうに、まさかの時のヘルパーだなと。
すぐに、ヘルパーをしている知人から今の職場を紹介され、面接を受けました。実は、私は、元美容師。18歳で北海道の芦別から東京に出てきて、美容学校を卒業、美容師もやりましたが、他に、痩身、リンパマッサージ、永久脱毛など、身体にかかわる仕事をしていたのです。その後、銀座のクラブホステスになり、そこで出会った男と結婚しました。そのような経歴なので、度胸もあるし、結構、物怖じしないタイプなんです。
人生、何が幸いするかわからない
事業所の所長は、介護ヘルパー体験を持つ、現場を知り尽くしている女性で、「仕事ができれば過去は問わない」という人なので、面接の時、事情を洗いざらい話し、その上で採用してもらえました。
最初の訪問介護の利用者の方は、障害を持ったご夫婦で、どちらも寝たきりの状態でした。すぐにおむつ交換をしましたが、ためらいはありませんでした。他人の身体に触れて、お世話をするというのは、リンパマッサ-ジなどの仕事経験が、とても役に立ちました。クラブホステスも、接客業で、いろんなタイプの人がいるってことに私は慣れていますし、「人生って、何が幸いするか、わからないものだなあ」と思いました。
そのまま、ヘルパーを生涯の仕事と思ってやっていたのですが、目の前から消えた元夫も肝臓癌で亡くなったと知り、私も交通事故に遭ってその後遺症で握力が弱くなり、一度、ヘルパーを辞めました。その時、たまたま知り合った人と再婚し、麻布十番でダイニングバーを開いたのです。でも、店は2年ほどでダメになり、それをきっかけに彼とも別れることにしたんです。
ちょうどその日のことです。たまたま介護の事業所の女性の所長さんもお客さんとして飲みに来ていて、「今日で、お店が最後なんですけど、また、私、仕事させてもらえますか?」と頼んだところ、「いいよ」となって、ヘルパーの仕事に戻ったのです。
それからは、もう、ずっとわき目もふらず、ヘルパーをやっています。
心待ちにしてくれる人がいる
今は、休みが週1日だけで、毎日、朝8時前後から、夜の8時頃まで働いているので、収入は十分、あります。私、タフなんです。
今の事業所は、時給がいいですし、ボーナスもありますし、保険にも入っています。その辺の待遇がいいですから、働けば働くほど、収入になるので、自分には向いていると思います。
ヘルパーをして育ててきた娘は20歳を過ぎ、今も二人で暮らしていますが、介護ヘルパーは、いざと言う時に、自分を支えてくれた仕事ですから、ずっと続けていきたいですね。
自分が訪問するのをいまかいまかと心待ちにしてくれる人がいる、それが嬉しい仕事なんです。
訪問する家は、港区内ですが、坂が多い地域なのでアシスト付きの自転車で回っています。
私は自前ですが、事業所には20台のアシスト付き自転車が用意されていて、地方から出てきて働く人のために、アパートも用意されています。面倒見がいい事業所ですので、今は、区内でもとても大きな事業所に成長しています。
- 【久田恵の眼】
- 福島さんからは、元気のパワーがひしひしと伝わってきます。大変なことも困難なことも、笑って吹き飛ばしてしまえる人柄のようです。そういう方は、利用者さんにとっては、頼もしく頼りになるだろうなあ、と思いました。利用者の方々は、皆、それぞれに、老いによって思いもかけない困難に直面している方がたですから。彼女のように、波乱万丈の人生を明るく乗り越え、何を言っても驚かないし、偏見も抱かない、しかも安心して本音で向き合える人は、相手にとっても、とても楽な存在です。「福島さんって、元気ですねえ」と言ったら、「やあだあ、今日は、どっちかって言うと、体調不良の日なのよ」と、屈託のない返事が返ってきました。