介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第2回 28年勤めた鉄道会社をやめて介護の道へ
人と人のふれあいを求めて行き着いたのが介護職だった。
熊田智根さん(50歳)
のんびりーす等々力(神奈川・川崎)
取材:原口美香
鉄道マン
高校を卒業後、鉄道会社に就職しました。楽しくてやりがいのある仕事だったんですけど、自動改札機が導入され、だんだんと機械化が進んで、駅員の人数も減らされるようになりました。お客さんや仲間とのふれあいが少なくなっていったんですよね。それもあって、意欲的に仕事と向き合えなくなっていきました。当時は20歳と14歳の2人の息子にまだまだお金のかかる時期。「会社辞めようかな」と女房に話したら、「え~! どうして~?」と動揺していたんですけど、それでも最後には、「お父さん、もう辞めていいよ、辞めなよ」と言ってくれたんです。嬉しかったですね。それで28年間勤めた駅員の仕事を辞めました。46歳の時でした。
しばらくはハローワークを通してパソコンの学校に行ったり、アルバイトをして生活していたんですけど、その時期は結構辛かったですね。鉄道会社の世界しか知らなかったので、一歩外に出ると、「世の中こんなに大変なのか」っていうのを一番感じて。でもどうしてもちゃんと就職しなければ、正社員にならなければという思いがあって、前職に内容が近い警備員の仕事を選びました。でも、いざ入社してみると、待遇や給料や仕事の内容が求人票と大きく違っていたんですよ。「話が違うな」という思いはあったんですが、一度勤めたからにはここで辞めるわけにもいかないと、我慢して働き続けたんです。
介護へのきっかけ
そんな時、通勤で利用するバス停の近くに広報誌がささっていて、普段は見向きもしないんですけど、どうしてか手に取りました。見ると「働きながら資格が取れます」って書いてあったんです。働きながら初任者研修の資格が取れるって。女房がたまたま介護施設の調理の仕事をしていて、以前から「お父さん、介護の仕事、向いてるよ」と言われていたんですけど、この世界のことは全く知らなかったし、自分には絶対できないって、蹴っていたんです。でも、その広報誌を見た瞬間、「あ、これ、いいな」って。これも縁だったんでしょうね、不思議なんですけど。
それで、その足ですぐに相談窓口に行きました。その時は申し込み締め切りの5日くらい前で、「月末に警備会社を退職できますか? 翌月の1日から勤務できれば対応します」と言われ、考えるより先に「辞めて来ます!」と答えていました。それが介護の仕事に入った発端というか、最初の道、きっかけです。
その時、「どこの施設で働きたいか?」と聞かれ、この「のんびりーす等々力」がちょうど新規オープンするところだったんです。やるなら立ち上げから関わりたいと思ってここを希望しました。入って3か月間は、1週間のうち現場に2日出て研修を受けて、2日はお休みをいただいて3日は学校に通わせてもらいました。何も分からない素人を現場に2日しか働かせてもらってないのに、3日も学校に通わせてもらい、資格まで取らせてもらったんです。だから会社にはすごく感謝しています。次世代に向けての育成という意味もあって、今、管理者代理というポジションにもしていただきました。管理者が私を推薦してくれたのもあって・・。ここには介護歴の長い先輩方もいますし、そういう方たちの仕事の仕方をみると、自分はまだまだ至らない、未熟だと思うので、本当に毎日が必死なんですよ。
「お父さん、変わったねえ~」と言われます
介護って、3Kだとか、今まで悪い話しか聞いたことがなくて、もちろん大変なこともありますけど、「ありがとう」とか「お兄ちゃんで良かったわ」とか、心から出る言葉を聞けるっていうのが、この仕事の本当にいいところだと思います。ここでは入居者の方と家族のように、密に接するんですよ。入居者の方の笑顔を見るだけでも、自分の中で力が湧いてくるようなところがあるし、やっぱり人と人のふれあいだから、こっちが頑張れば返ってくることが多いし、嬉しいことがたくさんありますね。
介護の仕事を始めてから、家族に「お父さん、変わったね~」とよく言われるんですよ。鉄道会社にいた頃は会社中心の毎日で、家庭をないがしろにしていて、自分では分からないんですけど、刺々しいというか、近寄りがたいようなところもあったみたいで。後日談なんですけど、「あの時は、辞めなよ、としか言えなかった」って。「いい女房を選んだんだな」って、一番辛い時に側で支えてくれた女房にはすごく感謝しています。何より今は、この仕事を選んだ自分のことを気に入っています。
介護って、終わりがないと思うんですよ。これで十分ってことはない。これからはそこを追求していきたいと思います。
インタビュー感想
終始にこやかに話をしてくれた熊田さんは、このグループホームのムードメーカー的存在。彼の人柄が、関わる多くの人々を明るい気持ちにしていると感じました。人とのふれあいを求め、不思議な縁に引き寄せられたかのように介護職に就いた彼の、清々しい笑顔がとても印象的でした。
- 【久田恵の眼】
- 46歳の人生の転機を見事に乗り切った彼の体験は、「仕事」は生活の糧を得るためだけのものではなく、「自分がどう生きるか」、そのものなのだと教えてくれます。
長い人生です。我慢して鬱々として生きるか、新たな世界に挑戦して、生きがいを手にするか、この分かれ道に遭遇した時、背中を押してくれた家族に胸が打たれます。
それぞれの生き方の足を引っ張るのではなく、それぞれの生き方を支え合うためにこそ、私たちは家族をなすのだということかもしれません。