福祉の現場で思いをカタチに
~私が起業した理由 ・トライした理由 ~
介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。
●インタビュー大募集
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- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第48回②
NPO法人ごちゃまぜ代表理事 雨野千晴さん
長男の障がいをきっかけに、本当の自分と
いかに付き合うかを学ぶことになったんです
雨野千晴(あめの ちはる)NPO法人ごちゃまぜ代表理事
1981年北海道札幌生まれ。小学校教員を10年勤続後、2017年にあつぎごちゃまぜフェス実行委員長を務める。2022年6月にNPO法人ごちゃまぜ設立。現在は、代表理事を務めるかたわら、『実践 みんなの特別支援教育』(学研教育みらい)などに執筆のほか、発達障がいのある生徒のための広域通信制高校SNEC講師、イラスト制作、SNSでの発信など多岐にわたって活動中。ADHD当事者でもあり、「うっかり」を楽しみながら共有する「うっかり女子会」も主催。ごちゃまぜでは、障がい理解・啓発のためのイベント企画/運営、ワークショップや講座開催・作品展示、商品開発・販売などを行っている。
取材・文:毛利マスミ
―雨野さんは、小学校に教員として10年間勤められたとお聞きしています。どういうきっかけで教員を志すことになったのでしょうか?
じつは教育大に通いつつも、学生時代には教員になる気はまったくありませんでした。私は、母と祖父母と暮らしていて、祖父が校長先生を務めた教育者だったんです。母は仕事をしていたので、祖母が母代わりのような形で育ててくれたんですが、その祖母から、「先生にならなくてもいいから、教員免許は取っておけ」と言われて育ちました。
それと、大学は「家から通える国公立しかダメ」という条件もありました。私は札幌出身なので、家から通える国公立は北海道大学と北海道教育大学の2択しかなくて、北大は北海道で一番偏差値の高い大学だったので、教育大しか選択肢もなかったんです。
とくにやりたいこともないけど、とにかく「4年間遊びたい」一心で大学に進学。就職活動の時期になり、家族の勧めるままに教員試験を受けたところ、たまたま一次試験に受かってしまい、このまま二次に合格したら「教員になるしかなくなってしまう」と思って二次試験は受けに行きませんでした。
でも、祖母はめちゃくちゃ怒ってました。「免許だけ取れば好きなことをしてもいい」というのは言葉のあやみたいなものだったようです(笑)。
先生にもならない、じゃあどうしよう?とさすがに焦り出した時、たまたまテレビで、小樽のガラス工房で働く若い職人のドキュメンタリー番組を観る機会がありました。それを見ていて衝動的に「これをやりたい!」と思いました。
私は大学では教育学を専攻していましたが、副専攻は美術でした。子どものころから絵を描いたりものをつくったりすることが好きだったんです。それで早速番組に出ていたガラス工房に体験に行き、「ここで働きたいです!」とお願いしたところ、あっさり就職が決まりました。4年生の2月のことです。
最初は反対していた祖母も、だんだんと応援してくれるようになって、親戚を連れて吹きガラス体験に来てくれたこともありました。
―家族の反対を押し切ってまでガラス職人を目指していた雨野さんが、なぜ「なりたくなかった」教員を志すことになったのでしょうか?
ガラス工房には3年間勤めました。職人の世界なので厳しかったことと、何より私は飽き性なのでコツコツと練習を重ねて技術を高めていく世界は致命的に向いていないと気づきました。そこで、また何をやりたいかは決まっていませんでしたが、退職して臨時採用の教員になってお金を貯めようと思いました。
当時お付き合いしていた方が神奈川に住んでいたので、そこで臨時採用の登録をしました。厚木になったのは、本当にたまたま。土地勘もないので、地図を頼りになんとなく真ん中あたり? と決めちゃいました。
いざ勤めてみると、子どもと関わる仕事は思いがけず楽しかったので、その後、本採用試験も受けて正規教員になりました。その後小学校教員として10年間勤めました。その間、2011年に長男、2013年には次男の産休・育休を取得しました。
長男は2歳のときに自閉症だということがわかりました。教師をしていると、クラスに数人は発達障がい傾向のあるお子さんがいます。息子の様子をみて発達障がいの傾向があるように思い、いろいろなところへ相談に行きました。
自治体の発達相談などでは、「様子を見ましょう」としか言われていませんでしたが、私自身は「あやしい!」と思い、かかりつけの小児科医の紹介で、大学病院で自閉症スペクトラムの診断を受けました。
―雨野さんご自身もADHDであることを、子育てのなかで気づきを得たとのことですが?
私は育休中に、子育てをしているなかで息子をたたいてしまったことがあって、「これは虐待かも」と、カウンセリングに行ったんです。そこで色々なことを話すうちに、だんだん子育て相談ではなくなり、自分の職場での悩みの話になっていきました。私は、本当に「うっかりミス」が多くて。職員室での人間関係もうまくいっていなかったんです。
私は子ども時代を振り返ると、親からは勉強ができるより「友だちがたくさんいることが大事」と言われて育ちましたが、ずいぶんわがままな子どもだったように思います。自分でもそれがわかっているので、その穴埋めをするように、勉強で成果を出すことで自己肯定感を満足させていました。
どんなにがんばっても、通知表の所見欄に「思いやりがある」とか「人に優しくできる」といった項目の評価が◎になることはなかったので、それは私のコンプレックスでもありました。
そんな私が、長男をきっかけで受けたカウンセリングのなかで、本当の自分とどのように向き合っていくか、学ぶことになりました。
―ありがとうございました。次回は雨野さんの教員時代のエピソードや、「うっかり女子会」についておうかがいします。
星槎国際高等学校厚木学習センターの生徒さんとも協働し、フェスでつかう材料を制作する。高校生とのコラボもごちゃまぜらしい活動の一つだ。