福祉の現場で思いをカタチに
~私が起業した理由 ・トライした理由 ~
介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。
●インタビュー大募集
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- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第39回② 小林由貴 特定非営利活動法人TSUBAME 代表理事
20歳で息子の父親が行方不明に。
介護と夜の仕事のWワークで家計を支える
特定非営利活動法人TSUBAME 代表理事
小林由貴(こばやし ゆき)
1987年生まれ。16歳で妊娠・出産。子どもは、妊娠中の低酸素脳症のために障がいをもって生まれた。子育てに奔走するなかで、息子の高校卒業後の居場所がないという現実を突きつけられ、ネイルサロンオーナーを経て、一念発起して生活介護事業所の起業を目指す。重い障がいがあっても、生まれ育った地域で「安心・安全」に暮らし続けられることを掲げ、2018年8月に重症児デイNESTをオープン。2020年には、重度障がい者生活介護FLAPPINGを開所し、現在は2つの事業所を運営している。
取材・文:毛利マスミ
―前回は、息子さんの居場所づくりの切実さが、NPO立ち上げのきっかけとなったお話と、16歳での出産から子育てについてお話をうかがいました。今回も引き続き、NPO立ち上げまでの道のりについてお聞きします。
―再び、5人での生活が始まり、落ち着いて生活の基盤づくりができたのでしょうか?
パパは正社員として勤め、私も介護の仕事を始めました。息子も障がいの子のための幼稚園に通うなど、やっと暮らしも落ち着いたな、と感じていました。入籍もしていなかった私たちは、「そろそろ結婚式を挙げて、入籍しようか」と話し合い、ブライダルフェアに通ったりするようになりました。
ところがそんなある日、いつも通り出かけたまま突然、パパが家に帰って来ませんでした。
周囲からは蒸発したんじゃないか、と言われましたが、私より子育てにも一生懸命なパパでしたので、それは考えられませんでした。本当に探して、探して……探すといってもあてもないのですが。
捜索願も出しましたが、捜査はしてくれないんです。それは、もしかしたら家族状況が良くなく、家族から逃げているのかもしれないからってことでした。未成年なら別ですが、成人の場合は「できることはありません」と警察からは言われました。
パパが見つかるまでの間は、経済的にも大変でした。収入はないのにローンの引き落としとか、そのまま残ってしまうんです、亡くなった証明がないので。私たち家族は、経済的にとても圧迫されました。
それでも、捜索願を出していたことによって、警察から連絡が来たんです、「遺体が上がりました」って。行方不明になって10ヶ月くらい過ぎた頃でした。自殺か他殺か事故か……今もわからない状況です。
今、暮らしている東海市に引っ越したのもこの頃のことです。知多の家には思い出がありすぎつらすぎて、住んでいられなくなったんです。
それにこの頃のことは、精神的にも不安定だったこともあり、あんまり覚えてないんです。でも、とにかく介護の仕事だけでは、支払いもままならないので、夜の仕事でも働きました。休みなく一日20時間くらいは働いていたと思います。
これが20歳頃のことです。
―介護と夜の仕事のWワーク、さらに障がい児の子育てと、本当に大変だったのではないでしょうか。
はい。ですが、母も姉も協力してくれたので、とても助けてもらいました。
介護の仕事もパパが亡くなった事で精神的に働ける状況ではなく辞めて。さらに、夜の仕事は私の性格に合わないこと、そしてパパが見つかって心の整理がついたこと、ローンや本人がいなくて解約できずにいた支払いも整理できたので辞めました。
その後、少しの間は何も手につかずふさぎ込んでいましたが、少しずつですが「ちゃんと働こう」という気持ちになっていったんです。
そんな折、パパの生命保険の担当者が一緒に働きませんかって、声をかけてくださって、生命保険会社の営業職に就きました。仕事はおもしろかったのですが、じょじょに生活が落ち着いて、将来的なことも考えられるようになると、このまま外で仕事をすることがいつまでできるのだろう? と考えるようになったんです。
姉は腎臓を患っていて……最近やっと移植ができたんですが、当時は体の弱い姉のことや子どもの障がいのことを思うと、「在宅でできる仕事」の方がいいのではないかと、考えるようになりました。第1回でもお話したように、「高等部卒業後の息子の居場所はない」と先生から言われたことが、私のなかの大きな影となっていました。
それで、夜の仕事をしていた頃に知った、ネイルサロンという仕事なら、「自宅でサロンを開業できる」と、思い立ったんです。それからは、昼は保険の営業、夜はネイリストの養成学校に通うという日々が始まりました。その後、23歳で卒業してネイルサロンに勤務。25歳の時に、自宅から徒歩5分のところにテナントを借りて、ネイリストとして独立を果たしました。
当時の私は、サロンでスタッフに仕事をしてもらい、オーナーの自分は、家で息子の世話をするというライフスタイルを目指していたんです。
それから3年間ほどは、365日1日も休みませんでした。朝6時起床、息子を学校に送り出したら、9時にサロンをオープン。18時に帰宅し、息子の食事と寝かしつけ、21時に再びサロンに戻り、夜中の2~3時まで働くという毎日でした。
ありがたいことに、宣伝をしなくてもお客さんはどんどん来てくださるし、幸いなことにスタッフも、育ってくれました。でも私は、施術の質に対するこだわりがとても強くて。
ネイルサロンは、一対一の仕事なので、意外と利益が出ないということも、サロンを始めてみてわかったことです。コツコツ働くから食べていく事は出来るけれど、それを拡大しようとするとやはり質の担保が難しいんです。私が家族と生きるためにほしい収入を得ようとすると、3店舗くらい展開しないと難しいと気づいたのが、サロンを始めてから4年目くらいのことでした。
それと同時に、高等部卒業後、18歳になった息子と「家に閉じこもって暮らす未来は、幸せなのだろうか」という思いが湧いてくるようにもなりました。 それで、家にこもるのではなく、「息子が通える施設を探そう。社会とつながれる所を探そう」と思ったんです。
―ありがとうございました。次回はTSUBAME立ち上げのお話をおうかがいします。
「在宅でできる仕事」を目指して、ネイルサロンを経営した。