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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


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プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第33回➀ 杉本 ゆかり 特定非営利活動法人 Lino代表理事
娘が2歳半で障がい児となったことをきっかけに
看護師を目指す

特定非営利活動法人 Lino代表理事
杉本 ゆかり(すぎもと ゆかり)
1979年生まれ。娘の障がいをきっかけに、2018年に特定非営利活動法人Linoを設立。障害のある子たちの存在を社会に知ってもらい、お互いにコミュニケーションを取り、共に暮らす社会の実現を目指す。現在はおもにinclusive(包括的・包み込むような)から名付けた「インクルシネマ」、「インクルプレイグラウンド」や「海洋リハビリ体験ツアー」など、障がいのある人もない人も、誰もが共に楽しめるイベント等を企画、開催している。また、ICTを利用したコミュニケーションの勉強会も積極的に開催。将来は、衣食住、仕事も含めたシェアハウスの実現を目指している。

取材・文:毛利マスミ

──特定非営利活動法人(以下NPO法人)Linoを立ち上げた理由を教えてください。

 きっかけは想像もしていなかった娘の病気です。
 私の娘は、2歳半のときに急性脳症になり、以来、後遺症から障害児となりました。昨日までは、手を繋いで一緒に歩いてお散歩したり、顔を見合わせてたくさんおしゃべりしたり、美味しそうにご飯を食べていたのに……。本当に突然の出来事でした。
 そしてこの時点で、これまでの生活は一変しました。
 でも、ベッドに寝ている娘の見た目はこれまでと全く変わらなくて。だから、人工呼吸器をつけていても、目を覚ませば「これまでと同じようにおしゃべりするのかな」と、漠然と思っていたんですが、呼吸器が取れ、薬がだんだん切れても、目も合わないし、しゃべらないし、ご飯も食べない。
 「何も出来なくなっていた」という状況が、自分の中で不思議と言うか、最初は理解し難くて。私は「障がい児」をそこで初めて見たんですよね。

 先生たちからは急性脳症になった時に、元に戻る確率は何パーセントぐらいという話や、脳がものすごく小さくなった状態の画像を見せてもらい、「この状態で呼吸器を外しても息ができているというのは、すごいことなんだ」ということを説明してもらうのですが、当時はよくわからなかったです。
 看護師さんも、「将来的にはこうした状態になる」ということを説明してくださるんですが、
そういう説明を聞いても、何か親の「希望」に賭けてしまうんです。もしかしたら元に戻る可能性もあるんじゃないかなとか、うちの子は元に戻るその数パーセントなんじゃないかと考えてしまって。今は赤ちゃんに戻ってしまったけれど、また一から成長していき、普通に前の姿に戻って行くのかなぁと。
 入院中は将来の事とか、先のことは全然考えられませんでした。

 退院後はリハビリに通う生活でした。でもリハビリに通っても、娘の状態は変わらなくて、もしかしてダメな方なのかなあと思いつつ、これから「どうなるんだろうな」ということを思っていました。
 そして退院して1年ほど経過してから、シングルとなり、1人で娘のりりかを育てていく事となりました。

 先が見えない中、私は娘を「元の姿に戻したい」という思いが強くて、脳や体の仕組み等、医学的な知識を身につけたかったんです。それに看護師になれば、継続的に安定した収入を得られると思いました。
 また、私は娘が入院したときに、自分の揺れ動く気持ちとか、ぐちゃぐちゃだった心を看護師さんにものすごく支えてもらったんです。その経験があるからこそ、自分もママの気持ちに寄り添い支えたい。自分がしてもらったことの「恩返し」の気持ちもあって、子どもが急性期の時にお世話になった病院で看護師になりたいと思い、資格を取りました。

──障がい児を育てるシングルマザーが看護師資格を取得するのは、大変だったのではないでしょうか?

 まずは、学校に通う資金を貯めなきゃいけない、ということで不動産販売営業の仕事を始めました。同時に市に相談に行き、「生活のために国家資格を取るんだ」ということを伝えて、ショートステイという枠組みを最大限利用して娘を預かってくれる場所を複数確保しました。
 娘が家に帰るのは、私の仕事や学校が休みの日くらいでした。不動産販売の時は日中、仕事の合間に娘のいる病院に立ち寄り、ご飯を食べさせて、また仕事に戻る。看護学校入学後は、授業後に夕ご飯を食べさせて、寝かしつけてから帰宅するという生活を約4年続けました。

 看護師免許を取得後は、娘がお世話になった病院でNICUと小児病棟に勤務するようになりました。娘も小学生になり、放課後等デイサービスも利用しつつ、私が夜勤の日には祖父母に泊まりにきてもらうという生活が始まりました。

──ありがとうございました。次回はNPO立ち上げまでの道のりや理由についてお伺いします。

杉本さんの活動の原点となった娘のりりかさんは、今年、⾼校を卒業した。