福祉の現場で思いをカタチに
~私が起業した理由 ・トライした理由 ~
介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。
●インタビュー大募集
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- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第30回➀ 友岡 宏江 定非営利活動法人Ohana kids理事長
重度の障がいを抱える娘の子育て経験が、
NPO法人立ち上げの原動力に
特定非営利活動法人Ohana kids理事長
友岡 宏江(ともおか ひろえ)
1980年生まれ。
13トリソミー染色体異常で、重度の障がいのある長女を子育てするなかで、多くの社会的障壁を経験し、障がいのある子どもたちが、社会とつながる第一歩となる居場所づくりを決意。仕事と子育ての合間に管理者、保育士資格を取得し、2016年に特定非営利活動法人Ohana kids設立した。現在は世田谷区若林で重症児・医療的ケア児向けのデイサービス・放課後デイサービス「Ohana kids station デイサービス」を運営。2021年春には、千歳船橋に2つ目のデイサービス「Ohana kids ナーサリー」を開設予定。
取材・文:毛利マスミ
──特定非営利活動法人(以下NPO法人)Ohana kidsを立ち上げた理由を教えてください。
長女の壽音(じゅの)が、医療的ケアが必要な13トリソミー染色体異常であることが直接のきっかけになりました。13トリソミーとは、約1万人に1人生まれるとされ、1年以上の生存率は10%未満とされる重度の障がいのある症候群です。
娘は妊娠中に心臓の欠陥が見つかりました。ドクターからは「生まれるかどうかは、この子の生命力しだい」とさえ言われていました。生後は手術を受けるなど、新生児室入院は10ヶ月にも及びました。
私は妊娠中から、シングルマザーで育てることを決めていました。また、当時は仕事で海外に暮らしていて、妊娠・出産を機に帰国を決めてはいたのですが、東京に拠点はなく、仕事も新たに探さなくてはなりませんでした。
実家のある九州で暮らすことも考えましたが、やはり田舎なので、娘のような重い疾患を持った子どもを育てる環境は整っておらず、東京で一般的な社会資源を使いながら生活するのが、一番メリットが大きいだろうということで、東京に暮らすことを決めました。
病院では、24時間体制で看護師さんに看ていただいていましたが、いざ娘が退院すると、私一人の背中に命と生活のすべてがのしかかってくる。育児も初めてというプレッシャーのなか、医療のプロでもない私がデリケートな娘の体調管理を行い、さらに経済的な余裕もない中で、あっという間に困難な状況に追い込まれていったんです。
区役所や児童相談所、病院のソーシャルワーカーなど、あらゆるところに助けを求めたのですが、その時に感じたのは、私たちは普通に生活したいだけなのに、なぜこんなに苦労するんだろう。それは、この子に障がいがあるから、医療的ケア児だからではないのか。「普通の子育て」だったら、もう少しスムーズに色々なことができたんじゃないか――という思いでした。
当時は私自身、まったく子育てが楽しめませんでした。
こうした経験から、どんな障がいがある子であっても「普通に楽しめる子育てをしたい」と思ったのがOhana kidsを立ち上げた理由です。
──ただでさえ子育てが困難ななか、自らNPO法人を立ち上げるのは、相当な覚悟と努力が必要だったと思います。さらなる労苦を背負ってでも、やり遂げたいと思ったのはなぜでしょうか。
「反骨精神」しかありません。私たち親子は、社会に存在していいのか。なんでこんなに拒否されるんだろうって、いつも思っていましたし、それで自暴自棄になった時期もありました。
私はシングルマザーですし、仕事をしなくてはならなかったのですが、「保育園に入れたい」と相談に行っても、行政はけんもほろろだったんです。「集団保育は無理」「なんでお母さんはそこまでして働きたいんですか」と、暗に「障がいを持った子を生んだんだから、自分で見るのが当然」と言わんばかりの態度でした。
たしかに酸素ボンベやモニターを持って、子どもにはチューブもついている親子が来たら、一般ではどう対応していいのかわからないのでしょう。社会から隔絶されていると感じていました。
でも、そうした状況のなかでも協力してくださる方との出会いや、子どもにとって何が大切かを考えるなかで、遊びや友だちと一緒に過ごす環境、家族から離れている時間はかけがいのないものだと感じ、「私もご家族の力になりたい」「重症児や医療的ケア児のためのデイサービスを作りたい」と考えるようになりました。
また、当時は今ほど障害者が通える通所施設がなかったこともあります。娘が初めて通った通所施設は板橋で、それも1回に90分間だけでした。行き帰りの吸引等のケアで立ち止まる時間も考慮すると往復4時間、母子一緒に通うのが条件で、こんなに苦労して通っても90分しか療育を受けられませんでした。
子どもの成長は待ったなしです。成長に、「今」は今しかありません。実はちょうどその頃、世田谷区では区立の障害福祉・保健センターの構想が練られていた時期でしたが、完成は10年後ですよ、と。
それで、「今、困っている人たちに必要なことを提供しなければいけない」「今やらないと、すぐには変わらない」と痛感し、それならば「自分でやるしかない!」と決意したんです。
──ありがとうございました。次回は立ち上げの苦労や運営の実際についてお伺いします。
2021年元旦に撮影した幸せオーラあふれる写真は、今年11歳の誕生日を迎える娘の壽音さんとのツーショット。