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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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花げし舎ホームページ:
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プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第28 回➀ 本郷朋博 ウイングス 医療的ケア児などのがんばる子どもと家族を支える会 代表
妹の笑顔を取り戻したい!
医療的ケアのある家族に、「場」の提供を!

ウイングス 医療的ケア児などのがんばる子どもと家族を支える会 代表
本郷 朋博(ほんごう ともひろ)
1982年生まれ。障がいを持つ甥っ子のことがきっかけで、政治家・社会起業家養成塾に通い、塾の仲間と共に2017年春、医療的ケアが必要な子とその家族のための任意ボランティア団体「ウイングス 医療的ケア児などのがんばる子どもと家族を支える会」を立ち上げ。普段は、東京の民間企業で官公庁・医療分野のITコンサルタントとして働いている。


取材・文:石川未紀


──医療的ケアのある子どもたちとその家族を支援する活動をされているそうですね。

 はい。妹の次男、僕の甥の存在が、この活動を始めるきっかけになりました。
 2012年に妹に次男が生まれました。出産事故で一時は、妹はICUで輸血を受けるほどでした。幸い、妹は一命をとりとめ、その後の後遺症も残りませんでしたが、生まれてきた赤ちゃんは低酸素性虚血性脳症で脳に大きなダメージを受けてしまいました。しばらくは生死をさまよう状態でしたが、二か月後にようやくNICUを出ると同時に退院し、そこから在宅の生活が始まったのです。
 僕は、子どもは当然のように健康に生まれて育っていくもの、と思っていたものですから、出産時に事故があったと連絡を受けた時は本当に驚いて、すぐに東京から、妹のいる関西まで飛んでいきました。在宅生活になって大変な子育てが始まることも、当時はきちんと理解できていなかったと思います。
 妹は子どもに障がいが残ってしまったのは自分のせいだと責めてしまい、その障がいを受け止めることが難しかった。僕は、明るくて社交的だった妹のふさぎこみようが心配でなりませんでした。
 特に、退院してからは、長男の育児の上に、次男の24時間の介護が必要でした。自力で痰を飲み込めないため夜中に何度も吸引をしたり、経鼻経管栄養の注入をしたりと日常的に医療的ケアが必要で、ほとんど眠れない状態が続きました。当時、父親は仕事で帰宅も遅かったことから、ほとんどの育児を妹一人で負わなくてはならなかったのです。僕の母親も手伝いに行っていましたが、やはりできることは限られる。ほとんど眠れない中で、そうでなくてもつらい状態。さらにてんかんの発作も出て、妹は精神的に耐えられなくなってしまって、親子ともに一時的にGCUに再入院しました。僕は妹のつらそうな状況を何とかしてやらなければと思って、メールや電話を毎日のようにしていました。
 実は最初の退院後すぐに、妹のところに保健師が訪問に来たそうです。そこで妹は、本当はつらい状況にもかかわらず、「大丈夫です」と言ってしまったようなんです。

──疲れているのに無理に気を張っていて、つい「大丈夫」と言ってしまう、その心理ですね。

 そうなんです。それに、初めて会った保健師が信用できなくて自分のつらい気持ちを話せなかった。ところが、保健師はそうですか、と言って帰ったきり、一度も連絡がなかったそうです。しかも、妹はつらい状況でいろいろと調べる前だったので、行政サービスに関する知識がなく、保健師にそのようなサービスを確認することもできなかったようです。また、病院からも、退院時にそのような情報提供は無かったようです。
 本当に困っている様子だったので、妹に役所に相談するようにアドバイスしましたが、役所の担当者は医療的ケアについて理解していないからか、「わからない。使えるサービスは無い」と言ったそうで、埒があかない。
 そこで、僕は、同じような障がいを持った人と話をすることで、気持ちが楽になったり、いい情報を共有できるのではないかと思い、妹の近所に住む、障がいのある子のいるご家族を知人から紹介してもらい、妹に連絡を取るように勧めたのです。妹は、その方と話をして、少し気持ちが落ち着いたようでした。そこで初めて行政サービスも受けられることを知ったのです。
 当時は医療的ケアのある子どもも少なく、近所にいなければ、本当に孤独の中で育児を強いられる。友達と頻繁に会っていた社交的な妹でさえ、出産当時は、障がい児を育てる友達がいなかったため、友達とはまったく会いませんでした。妹のように苦しんでいる人がいる。でも、つながれば、気持ちも楽になるし、情報も共有できる。そんな場を常に提供できないか、と思って、当時通っていた政治家・社会起業家養成塾の仲間とともに「ウイングス 医療的ケア児などのがんばる子どもと家族を支える会」を立ち上げたのです。名前は甥の名前「翼」から付けました。
 2017年3月のことです。

──ありがとうございました。
 次回は、具体的な活動内容について伺います。

本郷さんと甥の翼くんとそのお兄ちゃん