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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第21回① 佐野英誠 全国フリースクール 伊藤幸弘塾 塾長
憧れの伊藤先生との思いがけない出会いが
僕の人生を変えた。

全国フリースクール 伊藤幸弘塾 塾長
佐野英誠(さの ひでのぶ)
1978年生まれ。問題行動を起こす子どもを自宅に引き取り更生させるなどの活動を20年以上していた伊藤幸弘氏と出会い、その考えに共感。伊藤氏と15年間で900人の子どもたちに向き合ってきた。後に伊藤氏より塾を譲り受ける形となり、2017年、新たにReSTA Group株式会社を立ち上げる。現在は寄宿舎制のフリースクールを東京・新横浜・埼玉で運営。その他、訪問サポートなども手掛け、様々な子どもの問題に関わっている。代表取締役。


取材・文:原口美香


──佐野さんが伊藤先生と出会ったきっかけはどのようなことだったのですか?

 伊藤先生との出会いを、僕は祖母からのプレゼントだと思っているのです。

 祖母のお墓は大阪にあるのですが、墓参りに行った帰りの新幹線の中で、通路を挟んで隣に座っていたのが伊藤先生だったんです。伊藤先生が出演したテレビは、以前から結構観ていて「うわー、あのおっかない元暴走族総長の人だ!」と思って。僕はその時26歳。正直僕もやんちゃしている時代がありました。だけど伊藤先生の取り組みを知って、自分の経験が子どもたちの役に立つならやってみたいという思いはずっと持っていたんです。実際、自分たちで「子どものSOSに気づいていますか?」というチラシを作って、荒れている集合住宅に1,000枚くらいポスティングしましたがほとんど反応がなかったんですよね。

──伊藤先生と出会うまでの佐野さんのことを教えてください。

  僕はかなり波乱万丈な人生で、小学3年生から5年生まで、丸2年間いじめを受けていたのです。その時の僕は肥満児で、引っ込み思案。いじめられても一切言い返すことができない子どもでした。僕と話すとその子も無視されてしまうくらい陰湿ないじめで、毎朝起きると「苦しい」というところから始まって、うまく仮病を使うか、頑張って学校へ行くか葛藤する日々を送っていましたね。頑張って学校に行っても、誰も話してくれない。休み時間も外や廊下でひとりポツンといる。林間学校とかで部屋割りを自由に決めていいという時も結局先生と同じ部屋だったりで、結構苦しみました。うちは母子家庭で、母が女手ひとつで働いてくれていた姿を見ていたから、母にはいじめられていることを絶対に知られたくなかったんです。

 だけど小学5年生の時、ミニバスケットと出会って変わることができたんです。上からABCとランクがあって、僕はCチームでしたが、ある練習試合の時に5分くらい試合に出してもらうチャンスがあった。その時に奇跡的に得点を取ることができたんです。そこからバスケットに没頭するという日々が始まって。そのうちにいじめてくる人たちが気にならなくなった。同じ汗をかくバスケットの仲間と関係を築くこともできて、いじめから脱却できたんです。Aチームに上がるのも時間がかからなくて、結構自信にもなりましたね。弟もいたので、中2からは新聞配達をしながら学校へ行って、毎月生活費を入れていました。バスケットはそれから8年間やり続けました。高校も特待生として入学出来て。

 ところが、そこから僕の転落人生がはじまるんです。高2の時、公式試合でミスをして当時の顧問の先生からパイプ椅子を投げつけられたんです。当たりはしなかったのですが、血の気が上がって、気づいたら先生に馬乗りになっていました。結果的に自主退学という形になってしまったのです。

 今の時代だったらそうはならなかったかも知れません。でもそれで8年間続けたバスケットが一瞬のうちに消滅してしまった。失くしてしまったことの悔しさ、寂しさ、苦しさ。紛らわすためにそこから喧嘩に明け暮れる日々を送るようになってしまったのです。ほとんど家にも帰らないで、暴走族のようななことばかりやっていました。そんな時、母が倒れてしまったのです。僕のせいで警察に呼ばれたり、被害者に謝罪に行ったりして精神的にも追い詰めてしまった。久々に母の顔を見たら、「何をやっていたんだろう」という思いが込み上がってきました。変わらなければいけない。それで学歴もなく、社会のルールも知らないまま勤めに出たんです。だけどそれも3か月続かなかった。その後も2つ職場を変えてみたものの、長続きしませんでした。じゃあ自分でやろうと、仲間を5人集めて23歳で起業したんです。仲間を思う気持ちには自信がありました。人件費は絶対払ってやらなければ、だけど数字が上がらない。仲間を思うからこそ、厳しいことが言えなくなって、2年で大きな借金を抱えることになってしまいました。それで一度僕の右腕だけを残して会社を縮小して、コツコツと仕事をしていきました。少しずつ業績が伸びて、借金も返すことが出来ました。ゆとりが出てきたな、という時にテレビで伊藤先生を知ったのです。今まで自分がやんちゃなことをしてきて、世の中にたくさん迷惑をかけてしまった。でもその経験が自分のような子どもたちを救えるのなら…。伊藤先生の取り組みが心に響き、憧れのような気持ちを持ちました。

 その伊藤先生と新幹線の中で思いがけず出会った。伊藤先生は強面ですから、野生のライオンにちょっと餌をあげに行くくらいの気持ちで、恐る恐る「伊藤さんですか?」と声を掛けました。先生の活動に賛同していることなどを話して、思い切って食事に誘ったのです。

──運命的な出会いだったのですね。
次回はその出会いから、新たに事業を立ち上げた経緯などを中心にお話を伺っていきます。

現在は顧問として活躍中の伊藤先生(左)と。
伊藤先生の熱い信念は変わることなく、引き継がれていく。