福祉の現場で思いをカタチに
~私が起業した理由 ・トライした理由 ~
介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。
●インタビュー大募集
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- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第18回① 井上るみ子 NPO法人「こどものちから」 理事長
三男を亡くした後、11歳の娘の言葉
「私は蚊帳の外だった」がきっかけとなって
NPO法人「こどものちから」 理事長
井上るみ子(いのうえ るみこ)
1958年福島県生まれ。1998年三男を小児がんで亡くしたことなどをきっかけに、国立がん研究センター中央病院小児科の「親の会」で会員の相談に乗る傍ら、「ピアカウンセラー」「家族相談士」の資格を取得。2007年より同病院小児待合室で子どもたちと遊ぶ自主活動を開始。2013年、病児のきょうだい児を支援するNPO法人「こどものちから」を設立。
- NPO法人 こどものちからHP
http://kodomono-chikara.org/
取材・文:石川未紀
──病児のきょうだいを支援する活動をされているそうですが、何かきっかけはあったのでしょうか。
今から23年(1997年)前のことです。当時13歳だった三男に小児がんがみつかり、国立がん研究センターに入院したんです。
うちには、高専3年生の長男、中3の次男、小4の長女がいたのですが、上の子二人は病棟に入ることができ、三男にも会うことができました。しかし、小4の娘は、感染予防のために病室には入れませんでした。
ですから、小4の娘にも今の状況を理解できるように、一生懸命説明しました。そして、土日に家族で病院に行ったときには、廊下の長いすに座って、一人で折り紙をしたり、絵を描いたりして過ごしていました。
もちろん、そんな娘の姿は不憫でもありましたから、帰りに銀座で買い物でもしようと誘って、一緒に買い物をしたりしていたのです。平日の夕方は、一人で過ごす時間があったのですが、私が用意しておいた夕食を食べて、兄の帰りを待っていました。三男の状況、今の家族の状況を、その都度私なりにちゃんと説明して「今は大変だけど、家族で力をあわせて乗り切ろう」と励ましました。そして、彼女も協力していてくれました。
翌年、三男が亡くなりました。四十九日が過ぎたころのことです。娘が突然「私はずっと蚊帳の外だった。もっとちゃんと教えてくれたら、私にももっといろんなことができたはずなのに、何もできなかった。誰も私にちゃんと向き合って話してくれなかった。かわいそうな子なんだ」と私に訴えてきたのです。私はしっかりと娘と向き合ってきたつもりでしたので、正直戸惑いました。その訴えは毎晩のように続きました。
──きちんと説明していても、娘さんのさみしさは埋まらなかったのですね。
私は、「自分にも役割があってそれができたはずなのに」という言葉にもハッとしました。説明すればわかってもらえるというのは、親の思い込みであって、子どもは自分の理解の範囲で必死に考えていたんですね。それから毎日、「あなたはこんなに役に立っていた、私たちを助けてくれた」と伝え続けました。環境が突然変わったのですから、不安な気持ちになるのは当たり前なのですが、親の気持ちを察して気持ちを抑え込んでいたのかもしれません。娘の訴えは二年続きました。
私は三男が亡くなった後も小児科の親の会に入会していて、メンバーの相談に乗るかたわら、「ピアカウンセラー」「家族相談士」の資格を取りました。
それで娘に相談したんです。「この資格をどうやって活かしたらいいかな」と。すると「病院に小児待合室ができたけれど、相手をしてくれる人がいないから、子どもはそこで結局一人で待たなくてはいけないでしょう。そこに人がいてくれるだけで、ほっとするんじゃないかな。そこに来る子どもたちと一緒に遊ぶというのはどうかな?」と提案してくれたんです。
それで、元手ゼロの出発で2007年から小児待合室で月二回、子どもたちと遊ぶ自主活動を一人で6年間続けたんです。
──たった一人で6年間も続けたとは、すごいですね。
娘から提案されたことは大きかったですね。もう一つは、三男が入院中に「お母さんはいつも僕の話を聞いてくれるでしょう。ほかの子の話も聞いてあげてほしい、それをずっと続けてほしい」と言ったことがありました。「一人じゃ無理だよ」と言うと、「僕もやるから」と。「そんなこと言って、あなたのほうが約束を守らないんじゃないの?」と軽口を言ったら「約束を守らないのはお母さんだよ。僕は約束を破らない!」と、いつになくきっぱりと言ったんですね。その時の眼がちょっとドキッとするくらい私の胸に刺さった……。それで二人で“ごめんねと約束”の指切りげんまんをしたんです。親の会の活動を亡くなった後も続けていたのはそういう経緯もあったんです。