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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

志をもってチャレンジを続ける方々を、毎月全4回にわたって紹介します!

【毎週木曜日更新】

第17回① 寺田真理子 日本読書療法学会 会長
幼少期から南米へ。自分の人生は自分の力で切り開く。

日本読書療法学会 会長
寺田真理子(てらだ まりこ)
長崎県出身。父親の仕事の関係で幼少期から南米諸国を転々とする。東京大学法学部卒業。国際会議のコーディネーター、通訳として活躍し、自身がうつ病になったことが認知症と関わるきっかけになり、「認知症の介護のために知っておきたい大切なこと パーソンセンタードケア入門」の翻訳を手掛ける。2004年よりフリーとして独立。読書によってうつ病を克服した経験から「日本読書療法学会」を立ち上げ、会長を務める。現在は翻訳に加え、認知症を支える介護者の心のケアについての講演、読書会なども行っている。パーソンセンタードケア研究会講師。日本メンタルヘルス協会公認心理カウンセラー。


取材・文:原口美香


──寺田さんは幼少期より海外の生活が長かったそうですね。
まずはその辺りのことから教えてください。

 父が商社に勤めていたので、その赴任先に付いていくという感じで、幼稚園に入るまえにメキシコに行きました。日本語も二言三言しか喋れない時でしたので、最初に覚えた言葉はスペイン語でした。メキシコ人の子どもたちと同化して育ったので、言葉は自然に身につきました。小学校入学の直前に日本に帰国して、日本の小学校に通ったのですが、かなりいじめられました。日本語も分からないし、生活習慣の違いにも戸惑いました。例えば、家の中で靴を脱ぐということに対しても、向こうは土足でしたから、小さなことまで一つ一つ、馴染むのに時間がかかりましたね。

 いじめは続いていたのですが、小3のクラス替えの時、思い切ってキャラクターを変えたのです。どのクラスにも気の強い女の子がいますよね。その子の喋り方や行動パターンを観察して、「こうしていればいじめられないんだ」と。それが上手くいって、やっといじめがなくなりました。

 その後もコロンビアやべネズエラに行ったりして、高校受験の前に日本に帰ってきたのですが、帰国子女として受験できる高校の選択肢があまりなかったのです。海外生活が長くても帰国子女が多いICU高校なら馴染めるかな、と思って進学しました。ところが、英語圏のアメリカやイギリスからの帰国生が多くて、私はスペイン語でしたので、帰国子女の中でもマイノリティなのだと自覚させられました。英語ができれば受験で有利になるという帰国子女のメリットもスペイン語ではなく、自分だけが損をしているという気持ちが大きく、鬱屈した状態で過ごしていました。

 大学受験の時に人生を一発逆転させようと、東京大学法学部に行くことにしたのです。自分の進路をちゃんと考えたというよりは、自分の人生がどんどんマイナスにきているのを何とかしたいという思いでした。本当に大変で、受かった時には目の下にできるクマが、顎の下まで出来ていました。

──大学卒業後はどんなお仕事につかれたのでしょうか?

 卒業後は国際会議のコーディネーターとして働いていました。国際会議がある時に事務局としての機能を引き受けるお仕事なのですが、大きな国際会議というのはそんなにしょっちゅうないので、普段は様々な企業の会議のための通訳の手配などをしていたのです。会議の内容に合わせて、適した通訳の方に依頼をするようなことを1年くらいやっていました。企業と通訳の方の間に入って様々な調整もするのですが、それがまた大変だったりもして。通訳の都合がつかない時などは、代わりに私が通訳をすることもあって、その仕事の方が私に向いていると思うようになりました。それで学校に通って、スペイン語ではなく英語の通訳としての勉強を本格的に始めました。もともと語学は好きだったのです。

 フリーの期間を経て、企業内通訳の仕事に就きました。IT関係が多かったですね。通訳は英語ができればやれると思われがちなのですが、システム開発の会社だったら、どういうシステムかを理解していなければいけませんし、専門用語もたくさんあって、事前に厚い資料や用語集を渡され読み込まないといけないのです。社内用語も多くありました。誰もが理論整然と話してくれるわけではないので、要点をまとめて正しく通訳するということは、とても大変な作業でした。しかもその役職にふさわしい重みのある言葉に、瞬時に置き換えて話さなければいけませんでした。「言いたいことが3つある」と言っていた方が、話していくうちに7つにも8つにもなってしまうこともあったりして、上手く編集しながらフォローするということが多かったですね。

 普通、同時通訳は3人でチームを組んで15分ずつくらい交代で行うのですが、たった一人で8時間こなしたこともありました。本当に心身ボロボロになりました。 通訳を辞める直前の仕事もとても過酷でした。企業の組織変更に伴って、いろいろな方を「クビ」にしていく会議に関わったのです。ポストイットに社員の名前を一人ひとり書いて、「ここは6人もいらない。4人でまわるから」と2つ取ってしまう。取られた方はそのまま「クビ」になったり、他の部署にやられたりしてしまうのです。ひとりの人間がポストイットに置き換えられて、こんなやり取りをされる。これを訳している私って、何なんだろう。人を切るためのプロセスの通訳や、切る相手への「クビ」を告げる仕事が続いてしまい、自分が仕事をすればするほどいろいろな方の人生が悪いほうに変わってしまうように思えて、ついにはうつ病になってしまいました。

──とても過酷なお仕事だったのですね。
 次回はうつ病になられてから、そして認知症に関わることになったきっかけなどお話を伺っていきます。


メキシコでの幼稚園時代。
「一人ひとりが個別の存在として尊重されること」を学んだ。

●インタビュー大募集
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「ファンタスティック・プロデューサー」で、ノンフィクション作家の久田恵が立ち上げた企画・編集グループが、全国で取材を進めていきます

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花げし舎編著「人生100年時代の新しい介護哲学:介護を仕事にした100人の理由」現代書館