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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


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プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第13回② 伊丹純子 デイサービス・宅老所 民の家 代表取締役社長
10人の中のひとりかもしれないけれど、たったひとりの人。その「たったひとりの人」の人生を守りたい。

デイサービス・宅老所 民の家 代表取締役社長
伊丹 純子(いたみ じゅんこ)
1968年生まれ。
認知症だった祖母、最愛の夫、優しかった父を見送り、福祉の道へ。訪問へルパー、小規模多機能型居宅介護での勤務を経て、2010年6月に起業。「人々のもうひとつの家になれたら」との思いで名付けた、デイサービス・宅老所「民の家」は今年で10年目を迎えた。現在は、「この地域で楽しもう」と介護セミナーや音楽会など手作りのイベントにも力を入れている。介護福祉士、社会福祉主事。


  • デイサービス・宅老所 民の家
    埼玉県新座市栄5-1-10
    048-482-1877

取材・文:原口 美香


前回は介護のお仕事についたきっかけをお聞きしました。
今回は、起業した経緯を中心にお話を伺っていきます。


──起業したきっかけは、どんなことだったのでしょうか?

 小規模多機能に勤めていた時、あるおばあちゃんと出会ったんです。そのおばあちゃんは、旦那さんが大好きでいつも「お父さん、お父さん」と言っている。旦那さんはおばあちゃんがデイサービスにいる間、レシピを見ながら、それまで作ったこともない夕飯を一生懸命作って待っている。とても仲のよいご夫婦で、お父さんが着せてくれた服は、着替えてもらうのも大変なくらいでした。でもだんだんと身体が不自由になり手がかかるようになって、「あの人は、もうここにいる段階じゃないね、施設に入所してもらった方がいい」という話が、小規模多機能の中で出てきました。まだまだここにいられるのに、どうして施設に行かなきゃならないの? お父さんと離れ離れになっちゃうの? あんなにお父さんと仲がいいのに? お父さんと一緒にいさせてあげたい。私に何かできないか、私が見てあげられないだろうかと思うようになったのです。

 その頃行っていた三好春樹さんの勉強会で、「暮らしの中の生活リハビリ」「小さな民家でもデイサービスができる」など聞いたことが頭にあって、だんだんと立ち上げを意識するようになりました。千葉に「宅老所」というものがいくつかあると知り、見学にも行きました。宅老所を始めるには、介護福祉士の資格が必要と分かり、ちょうど受験できる時だったのでチャレンジして資格を取ったのです。同時に通信の大学で1年勉強して、社会福祉主事の資格も取りました。41歳の時でした。

 合格証書が手元に届いたのが、それぞれ3月と4月。その6月には会社を立ち上げました。介護のパートと並行して仕事していた電機屋さんの代表が、私が話す「楽しそうな介護」に興味を持って、立ち上げを一緒にしてくれたのです。分からない事ばかりでしたので、もし共に頑張ってくれる人がいなかったら、一人では出来なかったと思います。

 実際動き出すと家を借りるのがものすごく大変で、「こういうことをやります」と言うと不動産屋さん、大家さん、すべてアウト。どんな人たちが来るのか、多数の人の出入りがあるんだったら近所迷惑じゃないか? と断られることばかりでした。立ち上げの許可は県が管理していたので何度も何度も聞きに行き、しらみつぶしに探して家を借り、やっとのことで8月に認可が下りたのです。

──たったひとりの、そのおばあちゃんのために、「民の家」を始めたのですか?

 10人の中のひとりかも知れないけれど、その人にとっては、大事な人生がここの機会に変わってしまうかも知れない。その人らしく生きられなくなってしまうかも知れない。それを大事にしてあげたいと思ったのです。

 それでお父さんに「うちでお母さんのことみれます」と言いに行きました。そしたらお父さん「うれしいよ、すごくうれしいんだけど」ってボロボロ泣いて、「でも俺もう自信がなくて」って言うんです。実はお父さんは全身がんで、それを何度も克服して、またがんになってというのを繰り返していました。お母さんをいつまで支えられるか不安だから、「今入れる施設があるんだったら、そこにお願いしようと思う。だけど他にお願いしたいことがあるんだよ。今二階で20年引きこもっている息子のことなんだ」と。それが健児さんとの出会いでした。

 健児さんは二十歳の時に脊髄小脳変性症を発症し、障害と要介護認定を受けていました。その時は他のケアマネさんがついていましたが、ケアが何もない状態。病気になってからの20年間、家からほとんど出ないで暮らしていました。その健児さんを「外に連れ出してほしい」というのがお父さんの強い願いだったのです。それで「民の家」へ通所が始まりました。そのうち、お父さんの負担を減らすため月曜から土曜まで泊まって、土曜の夕食後に自宅に送って行き、月曜の朝また迎えに行くというように。私は家が別にありましたが、娘と泊まり込んで、健児さんと一緒にご飯を食べて。お母さんが入った施設にも、よく健児さんを連れて会いに行きました。二人が会うとすごい笑顔なんですよ。お母さんはきっと、私がお母さんをみよう、としていたことなんて知らないと思います。健児さんと「今一緒にいてくれる人たちかな?」くらいだったかも知れません。今でも健児さんのことは、娘の心にも深く刻まれているんです。本当の家族のようになっていたので。

──ありがとうございました。
次回は現在の「民の家」の様子や人材について、また心がけていることなどをお聞きしていきます。

施設にいるお母さんの誕生日、花束を抱えて会いに行く。
左からお父さん、お母さん、健児さん。

満面の笑みを浮かべて手を取り合う、お母さんと健児さん。