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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第11回② 柳本文貴 NPO法人 グレースケア機構代表
人材派遣の仕事から老健、グループホーム。
さまざまな場所で 目指したい介護の在り方や自己の道を探る。

NPO法人 グレースケア機構代表
柳本 文貴(やぎもと ふみたか)
1970年、新潟市生まれ。
介護福祉士/社会福祉士/ケアマネジャー
大阪大学在学中から障害者の介護や自立生活運動に関わるようになる。その後、人材派遣ベンチャー、老人保健施設、グループホームを経て、2008年、NPO法人グレースケア機構を立ち上げる。「できない理由より、するための工夫を探す!」「制度より生活をみる」をモットーに、自費を中心とした幅広いケアサービスを提供。多様な専門職を集め、ヘルパーの指名制やナースのシェアハウス、多世代の遊び場づくりなども行う。著書に『認知症「ゆる介護」のすすめ』、上野千鶴子さんとの対談「ケアのカリスマたち」など。


  • NPO法人 グレースケア機構
    東京都三鷹市下連雀3-17-9
  • HP
    https://g-care.org/

取材・文:原口美香


前回は介護の世界に入ったきっかけについてお話いただきました。
今回は、大学を卒業して独立を考えるようになるまでのことについて伺っていきます。


──大学を卒業された後は、どのようなお仕事に就いたのですか?

 介護の担い手は90年代当時も不足していて、私が関わっていたところでも介助者が限られるので、同じ人がケアに続けて入って疲れてしまい、大変そうだからとますます人を遠ざける悪循環でした。就職活動でいろいろなところを回ったのですが、その頃、人材派遣会社は勢いがあって何十万と人材が増えていました。だけど年齢が高くなった派遣のスタッフさんの仕事がなくなるという状況があったんです。そういう人たちの活躍の場を、企業じゃなくて個人宅への派遣や、会社から社会へ、まちなかの介護の方へ変えていくことができないかと素朴に考え、新卒で「パソナ」という会社に入りました。「社会の問題を解決するビジネス」を掲げていて。

 そこで介護人材の養成をやりたいと思っていたんですが、新人だし、なかなかチャンスがなく2年くらいいて、いったん退職。アメリカのNPOでインターンのプログラムがあって、半年くらい行って勉強してきました。帰国した後は、大阪の障害者の作業所で働きながら、ヘルパーをしていました。その後「パソナ」のグループ会社がヘルパーの養成講座を始めるというので、業務委託という形でちょっと手伝ったんですね。それが1998年頃で介護保険の前って、結構ヘルパー養成が盛り上がっていて、三好春樹さんのグループや障害当事者の人たちに講師をしてもらったりしながら、講座を年間30ヶ所くらいでやっていました。

 最初は自宅で仕事をしていましたが、事業がだんだん拡大していき「パソナ」のオフィスの一角に席を作ってもらい、再び社員になってスタッフも増えていきました。
 2000年に東京に異動になり、ちょうど施設への介護職派遣も始まった頃で、ヘルパーの養成と介護職派遣の事業に関わっていました。

 そのときから三鷹に住んでいて、東西線で通っていたんですけれど、毎日の通勤ラッシュにサラリーマン生活も辛くなってきて。それと、もともと障害者の介助はやっていたけれど、高齢者の方は、ほとんど経験がなかったので、自分で実際にやってみないと分からないなと思い、2001年に会社を辞めて、家の近所の老人保健施設に転職をしました。31歳のときです。その頃、佛教大学の通信で社会福祉士の勉強もしていたんですが、会社勤めをしながらだと全然進まない。結婚して1歳の子もいたので、生活を変えたいという理由もありました。
 結果、やはりかなり楽になりました。会社員に比べれば残業もないし、ちゃんと休めるし。老健では3日のうち夜勤を一回すれば次の日は明けで休みだし、自由に使える時間が増えました。それにやっぱり、面白かったんですよね。認知症の方に振り回されながら工夫したり、戦前の暮らしやリアルな戦争体験を聞けたりもして。

 でもフロアに30人いて、午前中に、はい全員お風呂に入れましょうとか、朝食のために朝の5時から起こして着替えさせてまた寝かせたりとか、やっぱりちょっとどうかなと思うことも多かったんです。どうしても作業になってしまう。身体拘束をしない代わりに、フロアの広いスペースにベッドごと運んで、スタッフルームの側に並べて置いてみたり。差額の居室代をもらっているのに。外出も年に1回花見の時にしかできなかったり。それが当たり前になっているのも辛かったですね。

 老健には2年半いて、その後、近くに認知症のグループホームができるというので、ホーム長として転職しました。1ユニット9人で3ユニットありました。毎日何人かの入居者さんとスーパーに買い物に行き、ご飯を作って食べて。たまたま老健にいた男性がグループホームに移ってきて、老健では荒れて問題老人と言われていたのに、買い物に行ったら重い荷物を持ってくれたり、一緒に洗い物をしてくれたり。やっぱり居場所や役割があるといいですよね。家の中のことはみんなでという感じでしたから、それぞれの力を見極めながら一緒にやっていました。入居者さんやヘルパーさんたちに教えてもらいながら、いろいろな料理を覚えられたのもよかったです。

 ただグループホームは逃げ場がない、窮屈だなと感じることもありました。老健は30人いるから、お互い合わない人とは離れていることもできるけれど、グループホームは、どうしても顔を合わせなければいけない。人と人との関係が一番やっかいで、工夫のしどころなのですが、小規模の限界みたいなものも感じました。そして2007年のコムスンショック。グループホームの法人がたまたま「コムスン」だったので、訪問介護の方の不正請求のとばっちりを受け、連座制で事業を続けられなくなったのです。結果的に「ニチイ」に身売りされて存続しましたが、そろそろやっぱり「在宅」かなぁとか、大手企業はどうかなぁと思うきっかけでした。

──それは大変でしたね。ありがとうございました。
  次回は、独立を考えてから、どのように実現していったのかなどについて伺っていきます。

普段は在宅でお暮らしの方に呼びかけて、
お出かけのイベントも行っています。
高齢の方も障害者も、
ご家族もスタッフも一緒に愉しんでいます。