福祉の現場で思いをカタチに
~私が起業した理由 ・トライした理由 ~
志をもってチャレンジを続ける方々を、毎月全4回にわたって紹介します!
【毎週木曜日更新】
Vol.78 連載第2回
施設職員や家族の認知症知識不足が
いまにつながる活動の端緒となった
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中島 珠子(なかじま たまこ)さん
コミュニティーナース
2014 年から認知症カフェ「たんぽぽカフェ」、2017 年からは若年性認知症本人と家族の集い「café マリエ」を主催。認知症になっても希望と尊厳をもって暮らし続けることができる社会を創りだす」ことを信念に、認知症のご本人や家族が集い、語らい、仲間づくりや情報交換の場を数多く企画・運営している。
取材・文 毛利マスミ
――前回は、中島さんの活動の全般についておうかがいしました。今回は、中島さんが、どのようにして認知症支援をすることになったのか、その歩みのお話をお聞きします。
わたしは静岡で生まれ育ちましたが病弱で、幼児のころから近所のクリニックに年中行くようなこどもだったんです。小学校になってからも、クリニックに立ち寄って遊んで帰るくらい病院に親しみがあって、そこでの看護師の方たちのお仕事ぶりから、いつの頃からか「将来は看護師になる」と、決めていました。
ですから、高校卒業後に看護師を養成する学校に進学したのも、自然な流れでした。看護師になってからは、いわゆる市立病院で夜勤もこなす生活でした。その後、東京に出てクリニックに勤務していたのですが、夫と出会い、20代後半に結婚。それを機に看護師は辞めました。
その後、39歳で夫が亡くなり、義母の介護や子育てが一段落してからは、いろんな仕事をしてきたんですよ。友だちの画廊を手伝ったり、趣味のそば打ちの腕前を活かして、「Sober」と言う名の蕎麦Berを始めたり。
そんな生活だったのですが、ある日、町会費の集金が来た時に、「このお金は何に使われているんだろう」という疑問が、湧いてきたんです。そのとき、40代になったばかりの頃でしたが、考えてみると自分もこれから歳を重ねる、この土地で生きて亡くなっていくんだし、地域って大事だな、調べないといけないなと、地域のことを考えるようになったんです。それまでのわたしは「地域」とは無縁の暮らしで、必要も感じてなかった。興味もなかったんですが。
それから近所の同世代のお友だちと、この街で「なにかボランティアできたらいいね」「荷物が持てない人のためにお買い物ボランティアとかもいいね」などという話が出て。「じゃあ、まずは地域の人と会ってお友だちになることからはじめよう」ということで、自宅を解放して月に一度のお茶会をはじめたんです。そして、この会のなかで「高齢者のことを知らないと地域のことはわからない」ということに気づいたんです。
そんな折、高齢者デイサービスの送迎ドライバー募集を見つけて、運転が好きだったということもあり、やってみようと応募しました。そうしたところ、「看護師をやってほしい」というオファーを受けたんです。長いブランクもあるし、できないとお断りしたのですが、「ぜひに」ということで、思いがけず看護師として復職することになったのです。おうちのお茶会をはじめてからは、すでに10年以上が過ぎた頃で、わたしは50代になっていました。
当時のわたしは認知症のことはまったくわかりませんでしたが、認知症だった義母や母の面倒をみていたこともあったので、少しの経験はありました。でも、仕事となると話は別です。「わからない」では勤まりませんので、ここからの1年は、自分でも驚くくらい勉強しましたね。いま振り返るとこの時期は、わたしの人生のターニングポイントだったんだなと思います。
――高齢者施設でのお仕事をはじめて、一番の課題に感じたことはなんですか?
仕事に就いてあらためて感じたのは、「認知症の人って、こんなにたくさんいるんだ」ということ。そして、とにかく「認知症に対する偏見が大きすぎる」ということでした。
わたしの務めた施設では、ふつうのデイサービスと、「認知症デイ」という、認知症の症状の重い方のためのサービスがあったんです。両方を見ていて感じたのは、「認知症と診断されたら人生終わり」……そんな空気感でした。
たしかに、認知症が進むとことばが出なくなったり、やりとりができなくなったりはします。でも、いくら症状が進んでいても、なにもかもまったくわからなくなっているわけではないんです。
たとえば、すぐに手が出てしまったりする利用者さんがいたら、「この利用者さんは、暴力的だから気をつけないといけない」というレッテルになってしまいます。でも、本当は、気持ちをことばで伝えることができなくて、手が出てしまっているだけなんです。そして、このことを職員も家族も理解できていないことに、残念な思いでした。
認知症も昔は「うちのおじいちゃん、ぼけちゃってさぁ」とか言って、歳を重ねれば自然なこととして受け入れられて来たのです。でも、「認知症」という病名がついて以降は、人様に言えない、恥ずべき状態、大変な病気みたいになってしまったと思いませんか? これからさらに高齢化は進み、認知症の人は増えていくのに、「認知症になったら、地域で暮らしていくこともままならならなくなる」と、危機感に近いものを感じたんです。
認知症は加齢による脳の変化だから、歳を重ねたら大なり小なり誰にだって起こります。近年になって「地域で支えていこう」という機運がやっと高まってきましたが、わたしが施設に勤務していた15年くらい前は、本当に理解がなかった。「人生終わった」って感じで、デイサービスの送迎の車も、近所に知られたくないから少し離れたところで降ろしてほしいというリクエストもあったくらいです。
それで、施設にも認知症に関する専門職を招いたりして、家族も一緒に勉強するようになったんです。とにかく、認知症は特別な病気でないということを、みんなに伝えなきゃ、という思いしかありませんでしたね。
わたしのいまの活動は、このときの認知症に対する理解不足と偏見が端緒となっています。
そして、わたしは在職中も、ご近所さんとのお茶会を続けていたので、それを発展させるような形で、車椅子の人も来られるようにと、自宅ではなく公共の場をお借りして2014年に認知症の当事者やご家族の交流の場「たんぽぽカフェ」を始めたんです。
ありがとうございました。
次回は、若年性認知症への取り組みについて詳しくおうかがいします。
第2回は2月20日(木)掲載
中島 珠子(なかじま たまこ)さん
1953年生まれ。看護師を勤めるが結婚を機に退職。その後、30年余のブランクを経て高
齢者デイサービスの看護師として復職した。一貫して、地域で暮らすこと、高齢者の課題、認知症の課題に目を向け、自宅を解放してのお茶会を在職中から開催。それが発展して、たんぽぽカフェ、café マリエなど、現在につながる活動となっている。体調を崩して 2019年に施設を退職した後も精力的に活動を広げ、コロナ禍の 2021年からは、仲間の看護師と一緒に「暮らしの保健室」を開所。多世代交流の場として活用しつつ、気楽な悩み相談の場を開いている。さらに、2025年1月からは、地域にこだわらない情報交換の場「結の碧空(ゆいのあおぞら)」もスタートさせた。
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若年性認知症の本人と家族のための「caféマリエ」。同じ悩みを抱える仲間との語らいが心を癒す場にもなっている。
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「ファンタスティック・プロデューサー」で、ノンフィクション作家の久田恵が立ち上げた企画・編集グループが、全国で取材を進めていきます
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