メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
terada@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第71回①
やぶうちゅうさん
知的障害の母、発達障害の父。
日常的に暴力がある中で育ち、幼少期から家事をする。

やぶうちゅうさん

1986年生まれ、大阪府出身。知的障害を持つ母、発達障害の父のもとで育つ。高校卒業と同時に上京し、まんが家を目指す。2011年自身の体験を描いた「ウチとオカン」でエッセイまんが家デビュー。以降、フィリピン留学をテーマにした「ウチと初海外!」や「貧困女子物語」など作品は多数。現在は放課後等デイサービスに勤務しながら、杉並区を拠点に虐待防止「杉並しあわせ産後プロジェクト」、アートを通じて誰もが集える場所づくり「できる。できない。じゃない!やってみるんだ実行委員会」、講演など幅広く活動中。

取材・文 原口美香

-現在杉並を拠点として虐待防止やアートを通じて幅広く活動されている、やぶうちゅうさんですが、どうしてこのような活動をされるようになったのでしょうか? 生い立ちからお話いただければと思います。

 母が知的障害だったのです。父が診断はついていないのですが、今思えば発達障害というような家庭で育ちました。両親ともに暴力があって、何度も病院や警察にお世話になりました。だけど保護されることもなく大人になってしまったんです。支援からもれてしまったという感じで。

 初めて保護されたのは16歳か17歳です。父親の車に乗っていた時に、引きちぎったバックミラーを顔面に投げつけられたのです。ガラスも割れてパニックになって、車から飛び降りようとしました。急ブレーキをかけられたので大怪我にはならなかったのですが、顔も腫れてひどい状態でした。いったんは家に帰ったのですが、翌日はその怪我のまま学校に行きました。それを見た高校の先生が「もう大丈夫だよ」と通報してくれて。薄々気が付いていたようで、私ももうバレていいや、助けてもらいたいという気持ちがあったのだと思います。
 その日は警察に一泊して、次の日大阪の一時保護所に行きました。そこは満員でした。優先しなければいけない小さな子がたくさんいて、高校生は私しかいませんでした。私より大変な子たちがたくさんいるんだなと思いました。
 一時保護所を出た後は大きく分けて4つの選択肢がありました。里親、養子、社会的養護施設、そして自宅に戻るという選択です。親を呼んで、子と支援員で面談をしてその後の進路を決めていくのですが、うちの親はその面談に来ませんでした。主に暴力のターゲットになるのは私だったのですが、私は3姉妹の長女だったので妹たちのことも心配でした。それで3ヶ月後には自宅に戻るという選択をしたのです。

 高校に戻ったら先生が「なんで戻って来たんだ」と驚きました。その時に「お母さんの様子がおかしいから、ちょっと病院で診てもらった方がいい」と言われ病院に行ったところ、そこで初めて知的障害があるということが分かったのです。当時、知能指数が60未満とのことで、言葉の理解も難しく、生活にも日常的にサポートが必要な中度障害でした。

-食事などはどうのようにしていたのですか?

 母が作れないので父が作っていましたし、もっと小さな頃は日雇いのお手伝いさんがいた時期が数年間ありました。でもいつまでもお手伝いさんを雇ってはいられない。私が小学校3、4年になってからは食事を作れるようになったので、その後は父と協力して家事や妹たちの世話をしていました。

 母に知的障害があると分かった時、病院の先生が「あなたのお母さんは50歳だけれど、中身は小学校低学年くらいなんだよ」と教えてもらって、すぐには理解できなかったのですが、次第に今までの記憶が走馬灯のように蘇ってきました。その時のお母さんの姿が小学生の女の子の姿に変換されて、自分の家は子どもしかいない家庭だったんだってだんだん納得したのです。「あなた今までよく頑張ったね。知的障害の人と暮らすのはプロでも難しいこと。もう自分の人生を歩んでいいよ」と言われ、初めて報われた気持ちになりました。

 それで高校を卒業した後に、まんがの勉強をしようと東京の専門学校に進学することを決めました。大阪校もあったのですが、実家から離れたい気持ちが強くありました。それで高校の先生と相談をしながら、何とか父を説得することができたのです。

-やっと自分の人生を歩き出すことが出来たのですね。
次回は上京してからのことを伺っていきたいと思います。

やぶうちゅうさん、子どもの頃の写真。