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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

ノン・線引き

 僕よりも20歳くらい若い介護職が、若年性認知症の方を、ある所に送る道すがら、車内にBGMを流してみたようです。

 その方の年齢を考えていく人かの歌手の曲を試みたそうですが、1970年代に流行った「かぐや姫というグループの曲を流すと小声で口ずさみ出したんです」と嬉しそうに話してくれました。

 かぐや姫は南こうせつさん、伊勢正三さん、山田パンダさんの3人グループで、国民的に流行った代表曲に「神田川」「赤ちょうちん」「22歳のわかれ」「妹」などがありますが、時代背景はその方にドンピシャ!
 レコードを聴いていたんでしょうかね、仲間とバンドでも組んでコピーして歌っていたんでしょうかねェ。

 その話を聞いたとき改めて「そうかぁ、若年性認知症現役の方は僕と時代背景が一緒。いや待てよ、時代背景は同じだけど、年齢は僕より若いんだ」と気づきました。
 そういや僕も世界基準では高齢者ですからね。

 そうこうしているうちに、東名高速を走っていると「70歳代を高齢者と言わない街 大和市」の垂れ幕がかかっていることに気づきました。

 ネットで調べると、神奈川県大和市は「だんだん高齢者が増えていく中で、街に活力や元気をつけていくためには、高齢者の定義を変えていかなきゃいけないということで宣言した」とありました。

 もともと大和市は2014年に「60歳代を高齢者と言わない都市 やまと」を宣言していたようですが、日本老年学会・日本老年医学会が高齢者の定義を75歳以上としたこともあって年齢を繰り上げたそうです。
 ちなみに学会によると66歳の僕は「准高齢者」だそうですが、僕としては「准」より「純」にしてもらいたかったですね。純な高齢者に。

 僕が20歳代の頃、僕が所属していた組合は30歳までを青年部と位置付けていましたので、30歳になると青年部卒業となり、青年部の活動を煙たがる人は「卒業=活動への声がかからなくなる=喜び」でしたが、若者が減ってきたことで青年部の区切りを32歳?だったかに引き上げ、結構笑えました。

 こういう「線引き」って面白いですよね。

 僕らにしてみれば、年齢がいくつかに関係なく、必要な支援を考えていくだけですが、車内に「何でもいいから音楽を流す」ではなく、「乗車した方に合わそうとする」、そこがたまらなくいい!!

 同時に、時代背景にだけ目を向けずに新しいものに触れる機会を設けることにも挑戦してもらいたいです。

 別のデイサービス事業所の職員さんと話したとき「毎朝、自分に元気づけるためにBTS(世界的ヒットを飛ばしている韓国の男性グループ)の音楽を聴いてから出勤してくるんです」と言うので、「うちのちびっこも大好き。ノリノリで歌ってるわ」と言った後、「利用者にも聞かせてあげてよ。これが今の若者たちが聞いている曲だよって紹介して。あなたが曲にのって身体を動かしたら、意外にノリノリになるかもよ」って伝えると、「えっ、いいんですか」って驚いていました。デイサービス利用者とBTSが結びつかないんでしょうね。

 事業所でBGMとして職員さんが好きな曲を勝手に流している場面に出くわしたりしますが、そこに「利用者たちとつなげる言葉や行動」がないのが残念。それは、そもそも「何のために音楽を流すのか」という考えがないままに行っているからなんでしょう。

 ゴリラのドラミングも音楽で、国家統制でもしない限り音楽のない国はないのでは。そもそも言葉よりも音楽の方が先でしょうからね。

 誰もが年齢分の過去にだけ縛られて生きているわけではなく、新しい価値を見出しながら生きており、そこに線引きはなく「最期まで」で「要介護状態にあるからといって失せるものではなく65歳や70歳を境に変わるものでもなく」でしょうからね。

写真

 うちの系列法人が運営する特養の入所者ですが、ここは「地域社会生活の取戻し」を意識していますから、新型コロナ感染状況が改善され「活動の再開」へ風向きが変わった途端、施設長が指示を出すまでもなく職員さん自ら入所者の意向に基づきコンビニへ買物に出かけたようです。
 こんな当たり前の「人として生きる姿」を失わせているのはウイルスではなく、介護の仕組みや専門職の思考だということを肝に銘じなければです。