和田行男の婆さんとともに
「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。
- プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)
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高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。
かんしタブー
認知症という状態になった人に対して支援する僕らのなかで、言っていることとやっていることに矛盾を感じていない者がいるとしたら、よほどの「自信家」か「鈍感人」か「何も考えていない人」ではないだろうか。
認知症という状態にある人といっても、大きくは「ふたタイプの状態」で、ひとつは「移動能力があり認知症という状態にある人」、もうひとつは「移動能力がなく認知症という状態にある人」である。行方がわからなくなるのは、100%近く前者だろう。
移動能力がない認知症という状態にある人は、自力では移動しないため、支援する側からいえば「いなくなる」「どこで何をしでかすかわからない」という心配はほとんどない。
ところが、移動能力があると自力で行動できるため、自ら行動しようとするのは当たり前のことで、そのため行動を把握しきれない場合は、どこかに行ってしまって「居場所がわからなくなった」を招きかねないのも当たり前のこと。
つまり、自分の意思を行動に移すことができてやり遂げられない状態にあるってことは、「移動する」ということそのものに支援が必要になるってことだ。
認知症では、これがやっかいなのだ。
人は、発達過程の中でいえば、生まれてからしばらくは動けないため、親は四六時中気を配っていたとしても、目を離すことはできた。
ところが、移動が始まると目が離せなくなるため、ある時点までは「かんし」という支援をすることになる。「かんし」するのは親とは限らないが、「施錠して閉じ込める」も含めて24時間かんし体制をとる。
ちなみに「かんし」は耳から入ればヒラガナだが、脳では「漢字:感じ」で変換される。多くの人は「かんし」と聞けば「監視」に変換するのではないか。
ちなみに監視とは、デジタル辞典によると「警戒して見張ること」とある。
ところが「かんし」にもいくつかの言葉があり「看視」「観視」というのも存在する。看視・観視とは「注意してしっかりと見守ること」とある。
「監」とは「見張る・取り締まる」「看」とは「じっくりとみること、気を配って世話をすること」といった意味があるようだ。
僕的に「かんし」の解釈や意味は「自分の範疇から外れないように手立てすること」と思っているが、いずれにしても、認知症という状態になれば「かんし」していくことが必要となり、完全に「かんし」していないと、行方が分からなくなっても仕方がない状態である。
だから介護現場では、方法はどうあれ「かんし」するし、それに対して誰も異論を唱えない。
かくいう僕だって、問題意識はもっているし、こうして投げかけるが、介護現場に入れば超一流の「かんし」を目指す。
問題はこの先である。
僕らは、「かんし」の漢字がどうあれ、どのような意味があろうとも、物心ついて以降「かんし」されるから外れ、「かんし」されることを嫌がるようになり、「かんし」を毛嫌いする。
もっといえば「自分をかんしする者」を知れば訴えかねないし、きっと裁判したら勝つだろう。
ということは、僕ら支援者は、意味はどうあれ認知症という状態にある人たちを「かんし」するわけだから、人にとってとても嫌なことをしているのであり、「認知症になっても人であることに変わりはない」と言うならば、人権侵害:犯罪を平気でしながら「人として」を語っているということになる。
僕は、開き直るわけではないが、常に「人権侵害をしていると認識して支援にあたっている」ため矛盾はないが、嫌になることはある。
かんし
重い言葉ではあるが、ケアプランに当たり前のように「かんし」と書けるようにならないと、みんな疲弊しやしないか。
僕の周りで「かんしするとケアプランに書かせてください」と言ってきた者はいないが、いいかげん「かんしさせていただきます」と、本当のことを書いたほうがいいし、そう本人に説明できる世の中になったほうがいいと僕は思っている。
あるいは憲法を改正して、認知症という状態になった者は「憲法の第3章基本的人権に一部制限を加える」と書いたほうがいのではないか。でないと矛盾だらけで行きづまり、さも正論を唱えて取り繕ってばかりになってしまう。
どんなに頑張っても、認知症という状態にある人に対して、人的:人のように生きられるようには支えられたとしても、人として生きられるようには支えきれないのだから。
写真
秋やね。
ことしは、夏感のない夏やったなぁ。