和田行男の婆さんとともに
「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。
- プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)
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高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。
ちょいと待った! 聞き過ごしちゃいけない言
デイサービスで「おやつ」と称される間食が出ていました。
ひと月の献立に合わせておやつも職員(管理栄養士)に決められていたので、それを止め、おやつにかける費用を現金で預かり、デイサービス利用者と一緒に街の和菓子屋に買いに出かけることに切り替えました。
和菓子屋のショーケースに並ぶ種々の和菓子を眺めながら「どれにしようかな」「きれいだねェ」「おいしそぉ」など、目にした情報をそれぞれに表現する姿は、「認知症の人」なんていう別人ではなく「人そのもの」でした。
「あーでもない、こーでもない」を繰り返し、やっと決めた和菓子。その代金を支払う緊張をも乗り越え、大事そうにデイサービスセンターへ持ち帰ります。たどり着くまでの時間は10分くらい。
「さぁ、お茶を用意して食べませんか」
と言葉をかければ
「そうねェ、お茶はどこにあるの」
となり
「あそこに急須と茶ゃっ葉、このポットの中にお湯がありますよ」
と伝えると、まるで初めてかのように言葉を出しながら手慣れた行動をとられます。
また、それを待っている人たちは「お茶と和菓子を待っている」とはまったく無関係な別ごとの人たちの集まりのようにお喋りに花を咲かせています。
お茶の準備が整い「さぁ、食べましょう」と和菓子の包みをほどくと、色とりどりの和菓子が目に。
「きれいだねェ」
「こんなきれいなお菓子は見たことがない」
など、まるで初めて目にするような感動の言葉を出される利用者たち。
「どれにししょうかな」
と各人が思い思いに手にしようとします。
職員が決めたおやつをただ食べるだけだった今までとの違いはどの職員にもわかることでしたが、ある職員が「和菓子屋に行って菓子を決めても、どうせ忘れてしまうのだから和菓子屋に買いに行く意味があるの」と疑問を投げかけてきました。
先日、グループホームの介護職員から
「支援策について話し合う中で、認知症の状態にある人は食べたことも忘れるのだからバランスもカロリーも必要ないという意見が出ましたが、和田さんはどう思われますか。ちなみに言われたのはキャリアのあるベテラン職員です」
という質問をいただいたのですが、こういうことと社会的に闘ってきたであろうグループホーに従事するベテラン職員の中に、未だにこういう考えがあることに驚きました
この二つの意見に共通するのは「どうせ忘れるのだから」ということですが、それをいえば人間はすべてのことを記憶し、かつ想起できるわけではないので、そう言う職員自身の人生のすべてのことに「どうせ忘れるのだから」の概念をもって生きるべきではないでしょうか。
僕らは憶えていようがいまいが、その瞬間をあらゆる能力を駆使して生きていて、その「瞬間の積み上げ」が「人生=人が生きる」ということだとしたら、認知症の状態にあり10分後には忘れてしまおうが、そのことを理由に「瞬間の積み上げ」まで失わせてしまっては生きることを支援する専門職とはいえないでしょう。
また、記憶装置に支障がきて何を食べたのかを忘れたとしても、取り込んだ栄養素やカロリーを身体(生理)は把握しますから、「忘れるから栄養もカロリーも関係ない」というのは暴論で、もはや「認知症の人は人に非ず」を無意識のうちに語っていることに早く気づいてもらいたいものです。
追伸
死で以って初めて、その人への我が想いを実感するなんて「我」を悔やむばかり
その人の闘う姿が自分を奮い立たせる動力のひとつになっていたんだと気づいたが、言葉を交わせなくなった今、ありがとうございましたの言葉をかみしめることしかできない。
これも我が人間だということの証かな。
合掌
写真
写真は自分の内面を画にしますよね。