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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

大震災から10年 その1

 東日本大震災が勃発して10年を迎えます。
 被災で苦しんでいる方々がたくさんいるかと思うと、心苦しい限りですが、税金を確実に収めることぐらいしかできなくて、同じ日本国の国民として申し訳ない限りです。
 被災で苦しんでいる方は東日本大震災被災者だけではなく、災害大国日本なだけに各地にいて、心身ともにご苦労されていることでしょう。言葉もありません。

 先日。東京滞在中に地震が起こり、福島の仲間から「地震で被災、原子力発電所被災で被災、台風で被災、また地震で恐怖・不安の蘇りと続いている福島にはなんかとりついているのかね」と嘆きのメールが届きました。

 10年前の3月11日は広島県の山中に居て、打ち合わせの最中に連れ合いから「大変なことになっているよ。テレビ見て」という悲痛なメールを見てすぐにテレビを見て、声も出なかったことを思い出します。

 と同時に「あいつ大丈夫かな」と仲間の顔を描いたし「俺にできることはなに」と自分に問いかけ、3月末までびっしり書かれていた手帳の予定をすべてキャンセルさせてもらい、すぐに仲間と連絡を取り合って被災地へ救援物資を届けるための準備をしたことも思い出しました。

 12日には広島を出て香川県で予定されていた講演会だけは出て、名古屋駅で連れ合いから着替えとお金を受け取り、新横浜駅で仲間と合流して物資の調達にあちこち駆けずり回り、ホテルで一眠りして13日には横浜から北上し茨城県の仲間のところに行きました。

 ひび割れた道路、モノがないコンビニ、傷んだ家屋、ガソリンスタンドを目指した車の大渋滞、スーパーの開店に行列する人々を見ながら竜ケ崎市の仲間のところで一部物を下ろし、さらなる北上を目論見ましたが、知人の原子力発電所関係の仕事をしていた方から「政府の発表をうのみにしたらダメだ。あのチェルノブイリ原子力発電所事故なみだから行ってはダメ」との進言を受け、かなり迷いましたが、家族のことも考えて北上を断念。

 14日には、一旦名古屋の自宅に戻って「東京大停電」のための物資を東海地域で買いあさり、沖縄など各地の仲間に物資調達の依頼をかけ、資金集めを同時並行的に行い、また上京。

 真っ暗けの仲間のグループホームに懐中電灯を届け、自社にも物資を届けてすぐに名古屋に戻り、また物資を調達し、東京でも物資を調達し、福島県郡山市に、新潟経由で入りました。
 国の役人さんが話を聞きつけて「被災地支援」の切符をくれたので、どこでも車で通ることができました。
 また男二人で支援活動を行ったので女性用品に気づけず、うちの女性職員が「これも、きっといるよ」と教えてくれ買ってきてくれました。

 早朝の郡山で、車いっぱいの物資を渡すために仲間と待ち合わせをしたのですが、お互いに顔を見て思い切り抱き合ったことが忘れられません。

 「福島は、原子力発電所で恩恵を受けてきた地。自業自得な面も否めないことを忘れるなよ」
 「わかってるよ」

 とうなずいてくれたので、車に積んできた物資をすべて下ろしました。うなずいてくれなかったら僕はどうしたんでしょうかね。
 いろいろな物を持参しましたが、その場で一番喜ばれたのは東京の仲間が託してくれた焼き立てのパンで、心の底から「美味しい」ってつぶやいてくれました。

 僕が意識したのは、僕らが直接被災者に届けるのではなく、いつも顔の見える関係性があった仲間に物資やガソリンを供給し、その仲間が被災者に向けて行動できるように後方支援に回ることでした。

 郡山市と新潟をどれほど行き来したか記憶にないですが、福島の仲間と電話で「何が必要か」のやりとりをしながら必要なモノを届けるようにしましたが、時間で必要なモノが変わったことを記憶しています。ガソリンは新潟の同業先輩仲間に手配してもらいましたが、あのときほどガソリンを車中に積んで走ったことは未だにありません。

 旅館で泊まりましたが、政府の支援策で一律5000円でした。考えれば「やっぱり」なのですが、大風呂に入ると水風呂で、つかってすぐに飛び出しました。3月でしたからねエ。

 倒壊した家、危険印の赤紙を貼った建物は役所の庁舎にまで及び、つらくて見つづけられない状況下でしたが、あるコンビニに「お水無料でおわけします」との張り紙があり「日本人」を感じたことも記憶に残っています。

 仲間と二人きりの急性期支援は数日間滞在して切り上げ、今度はもっと多量の人・物を贈り込むための方策を考え実行に移しました。

 切り上げて郡山から名古屋に戻る際に、前方を走る車に後方からパッシングを浴びせて避けさせ、真横を通過する際にその車が覆面パトカーだということに気づきましたがすでにとき遅く、捕まるというおまけまでついてきました。助手席で追い抜く車の運転手=警察官と目が合ったのは僕でしたがね。

 その車中で、いろいろなことを思い返しているうちに、僕が被災した時に何人の人たちが「和田は大丈夫だろうか」と描いてくれるのかが気になり始め、「お互いに描き合える関係のネットワークをつくろう」と構想したのが、災害支援法人ネットワーク:通称おせっかいネット」でした。

写真

 元鉄道マニアの僕は、ときどき鉄道写真を撮りたくなるのですが、知人のマンションに入らせていただき通路から撮影した一枚です。この穏やかな景色が、長い時間にわたってぐらぐら揺れました。
 台風は「いくぞ・いくぞ」って言いながら正々堂々とやってくるので備えが効きますが、地震は「くる・くる」って言われながらこず、忘れた頃に急襲してくる、いやらしいゲリラなので恐ろしいですよね。

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