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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

醍醐味


 認知症の状態にあるヨネさん(仮名)は自宅で一人暮らし。要介護認定は「要介護1」で、ヨネさんを支えているのは小規模多機能型居宅介護です。

 自宅に一人きりにさせておいては、どんどん生活にけじめがなくなるので、「毎日通いサービスを利用していただくことにしている」とのことですが、ヨネさんに限らず、いろいろな心配事が増える真夏や真冬は毎日目の届くところ=通いの場に連れ出したくなるのも、わからなくはありません。

 しかも自宅に居る時と違って、通いサービス利用中のヨネさんは、そこは要介護1にふさわしい動きを発揮するため、要介護度と関係なく「通いサービスは毎日必要」と判断してもおかしな話ではありません。

 ここが事業者としては頭の痛いところで、「通いサービス」「訪問サービス」「宿泊サービス」を備える小規模多機能型居宅介護ですが、要介護度と実際に必要な支援の質と量は必ずしも一致しません。

 毎日通いサービスを利用して快活さが出ていることはヨネさんにとって「良い支援」といえますが、小規模多機能型居宅介護事業の面から考えれば、登録人員を増やすネックになりかねません。

 経営を安定させないといけない事業者・法人と、利用者のことを優先させたい事業所・職員たちにギャップが生じます。

 登録数25名として、その経営分岐点を80%登録の20名とした場合、「通いサービス定員15名」ですから、毎日全員に「通いサービス」を利用していただくとなるとパンクです。また、15名登録で留まれば登録率60%になるのですから、経営的に破たんです。

 それなりの規模の法人は他事業でまかなうことができるので「単体」が見えにくくなりますが、事業所単体で考えれば「どれだけ利用者に良い支援を提供していようが事業破たん状態」であることに変わりはなく、これでは「支援に継続性がない」わけですから、本当の意味で「良い支援」とはいえないでしょう。

 ともすると「介護の仕事」に就く人の中に、「人のかかわりの量=介護の質の高さ」的な考え方がある節があり、「人のかかわり量の確保=利用者が少ないほうが確保できる」という当たり前すぎる数式に甘んじているように思うところもあります。

つまり「良い支援をしたいから利用者を増やさない」という図式になっているということですが、現制度では「利用者を増やさないと事業の継続ができない」という本筋は蚊帳の外に置かれてしまいがちです。

 そのことをしっかり頭に据えている事業所は、小規模多機能型居宅介護におけるケアプランを煮詰めるでしょうし、据えていない事業所は「利用者にとって」を御旗に経営的に苦しむでしょう。

 そもそも「個々の利用者にとって」だけを追求しにくく無理が生じやすい小規模多機能型居宅介護事業の制度の中で、いかに登録者全員にとって有効な手立てをとれるか、それはどこで折り合いをつけるか(シェアする)にかかっています。

 それが、それがこの事業を運営する者の醍醐味だと思うのですが、いかがでしょうか。

 「フォーマルな通いサービスと訪問サービス」それに「インフォーマルな支援策」をパズルのように組み合わせて自宅生活を応援する小規模多機能型居宅介護は、可能性を秘めながらもまだまだ道半ばであり、だからこそ面白味のある事業なのではないでしょうか。

 僕自身は、小規模多機能型居宅介護の位置づけを「24時間型入居系施設に転居させない、自宅生活を維持する砦」にするべきであり、そのためにも「要介護度と必要な支援量は必ずしも一致しない」ことを踏まえ「介護度を上げない先を見越した今の支援策が必要」と考えるので、小規模多機能型居宅介護は要支援や要介護1・2で安定的に経営できる仕組みにするべきだと思っています。

写真

 ご存知、水木しげるさんのゲゲゲの鬼太郎に出てくる目玉おやじですが、僕の「近頃のだらしなさ」に怒られました。
 下の写真は、鳥取県境港市に「水木しげるロード」という道があり、そこを指し示す道路標識ですが、韓国や中国の方の訪問が増えているんでしょうね。去年はありませんでしたから。
 それにしても、この標識といい、前に写真をアップした韓国語や中国語の電車の案内板といい、日常の中に韓国語や中国語が出てくる時代になったにもかかわらず、それに反比例するかのように国と国の関係が悪くなるばかりというのは何とも皮肉ですね。