和田行男の婆さんとともに
「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。
- プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)
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高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。
僕62歳のテーマ
徳島県でとてもいい話を聞いたが、想い起こせない。
脳にインプットして定着されているのに想い起せないのか、そもそもインプットしたけど定着できていなくて想い起こせないのか。
どちらにしても、こうして書きだそうとすると「何のことやったかな」となり、かといって「何もなかった」という白紙状態まで憶えていないわけではないので、「えーと、なんやったかいな」と自問する時間が長くなり自分にイラつく。
20歳代、30歳代、40歳代、50歳代、60歳代と生きることを続けてきて、確実に時間がかかるようになってきた「想い起こし」。
僕と同じような思いをしている人がたくさんいて、「僕も私も」と共感してくれているのではないかと思うが、記憶がこうなると補う手段は「記録」しかない。
記録の手段はいろいろある。
書く、記録したものを買う、撮る、録るなど、その時々に合わせて記録(化)すればかなり有効なのだが、これも記録したことの記憶の上に成り立っていることで、いくら記録しても、記録した記憶がないと効果はない。
するとさらに補う手が必要となり、これを補うのは「インプットの再現」しかない。
つまり、記録化したことが目の情報に入ってきて再現できるようにするということだ。
わかりやすく言えば「どこどこを見ろ!」というように、目に飛び込みやすいところに書いておけば、目にするまでは何のことか「?」だとしても、目に入れば起こしやすくなるってことだ。
さて、ここで課題になるのは、「どこどこを見ろ」とか「徳島県・いい話」というように、キーワード化した文字等をどこに記して目に留まるようにするかである。
よく見かけるのは「忘れないように手に書く」とか「付箋に書いて貼り付けておく」といった人の話を聞くが、僕の場合何が有効なのかと考えるが、どれも決め手がない。
手に書いても、文字を書いた手を見て書いてあることを想い起こすこともなく「汚いな」と洗ってしまうだろうし、手帳に付箋をつけても手帳を見ることが習慣化されていないからだ。
そうこう思考してみて気づけたことは、結局僕の場合は、どんな補いの手を使っても「自力完結」は難しいことがわかっているので「他人」を切り札にするのかなと。
僕と一緒に飲みに行って、僕が時計やメガネや携帯電話を忘れると、一緒に飲みにいったうちの連中が他の連中に「おまえは隣にいて何してたんや」って責められると聞いた(ハハハ、気の毒やろ)。
僕があれこれスケジュールをうちの連中に公表しておくと、連中たちが「明日は東京で研修ですよね」というようにメールをくれるのも、その一環かも。
まぁ、究極の一手は「しょうがないよね、和田さんだから」という「人に備わる他人への寛容」に持ち込むことだが、僕だけがそう思っていても成立する話ではなく、僕のこの姑息な手に屈したかのように振舞ってくれる周りの人たちのおかげでしかあり得ず、僕も他人に対して寛容を発揮できてはじめてフィフティ・フィフティ、「もちつ・もたれつの関係」にしてもらえるということだ。
そう考えると、もっとも「もちつ・もたれつの関係」にしていただくべきうちの連中に、僕が御返しできることは何か。
それが僕62歳のテーマである。
追伸
とても身近な他人でセーフティネットは「連れ合い」のはずなのですが、これが似た者同士…。
仕事で言えば僕の「直属の側近」ってことになるんでしょうが、これも似たもの同士…。
類は類を呼ぶとはよく言ったものですが、こうなったら自分がしっかりするしかない! です、ハイ。
写真
今朝の朝刊の見出しは「自民歴史的大敗」「負けました藤井四段」と、負けたほうが一面トップ見出しというのも面白いね。 こういうところに負けたほうの存在感の大きさを感じざるを得ないし、こういう連中は負けて存在がなくなるわけではなく「再び」這い上がってくるんやろうね。
ただ自民党を通して見え隠れするのは、同じ過ちを犯し続けてきているのに這い上がらす国民がいるということかな。これも「もちつ・もたれつ」?。