和田行男の婆さんとともに
「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。
- プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)
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高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。
事(事業)の本質
何食べる?
友人たちと外食に出かけた時に、友人からそう問われると「う~ん」と脳の中に蓄積された情報から「何にしようかな」と選択を始め、「和食にするかぁ」「パスタにするかぁ」といったように絞り込み、「今日は、鮨でも食いに行くかぁ」ってな着地をして、「ところで、どこのすし屋に行く?」といったパターンが、僕らの暮らしの中には普通にあるのではないでしょうか。
先日、グループホームの職員さんから『和田さんは入居者の意思を確認することが大事だと言うけれど、入居者に「何食べますか」と聞いても「何でもいい」「あんたにまかせるよ」って言われるんです。どうしたらいいですか』って問われました。
よくある質問なんですが、その方によく聞くと「グループホームが目指しているのはふつうの暮らしであり、それを再現するのが僕らの仕事だ」と言うのです。
前述の僕らのやり取りと同じように「何食べます・何にしようかなと描けること=ふつうの暮らしの再現」に「単になっていた」ということです。
つまり「認知症の状態にある」ということがすっぽり抜け落ちているわけですね。
グループホームの入居者は「認知症の状態にある」ことが入居の前提条件ですから、そこでの支援策は「認知症に応じられること」が必須です。
さらによく聞くと、そのグループホームでは管理者たちが「認知症があったって人であることに変わりはないのだから同じように」と伝えているようで、そういう意味では「ステキなグループホーム」だと言えるのですが、「人としての価値は変わらないけれど認知症の状態にあるという前提が抜け落ちているのではないか」と話しました。
歯が壊れている人と一緒に外食することとなり、一緒に行く人の歯が壊れていることを知っていたら「何食べる?」じゃなくて「何が食べられそう?」って聞きますよね。
歯が壊れている状態にある人が壊れている人に合わせようとするじゃないですか。自分と同じ食べ物を! とはならないですよね。
それと同じで、脳が壊れた状態にあることを知っているわけですから、その状態で理解できるように指し示すこと=それが支援策であり、「何食べる?」って抽象的に聞いたら「何でもいい」「わかんない」となることを予想し、まずはそう聞いたとしても、次の段階では「ご飯?麺?パン?」と選択肢を具体的に示して描きやすいよう支援するということですが、認知症という状態にある人を支援する者には必然的に必要な支援策で、前述の「ふつう」にとどまっていては「応じている」とはいえないということです。
グループホームの正式名称は「認知症対応型共同生活介護」で「事業」ですが、グループホームという呼称に惑わされて「事(事業)の本質」を見失っていたということです。
でもそれも、本人の意思を確認することもなく一方的に提供するのではなく「意思を尊重する」とか「選択権を大事にする」という取り組みの結果「うまくいかない」という話であり、意思の確認もしない選択肢も示そうとしない旧態然とした介護とは次元の違う話で、それが「介護の革命」と言えるところですよね。
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自分で目薬をさせるように支援しましたが、ご覧のように目をつぶっているので薬は目の中に行き届きません。
だからといって最初から「目薬をさしてあげる」のではなく、この結果を予測しているので傍に付き添って見守り、いったんは声をかけながら自分でさすことを目指し、この結果を見てそのままにすることなく、ご本人におかしみをもって話したのち、目薬をさしてあげます。
なぜ「おかしみのはなし」が必要か?
自分でできると思っている本人にとって「できないはつらいだろうな」というところまで察するからで、「目にモノを入れるって怖いですものね、我が子でも」といったように、「できなかったことをケムに巻く」ってことですかね。