和田行男の婆さんとともに
「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。
- プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)
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高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。
無い視鏡
介護している妻をみて「ずいぶんと弱ってきたな」と思っていたら、鏡に映る自分を見て「俺もとしとったな」とふと思う。
ある小規模多機能型居宅介護の運営推進会議でご家族が話してくれた言葉だが、相手のことばかりに目をやって己のことを見過ごしがちだが、こういったことは人と人の関係において多々ある。
子供叱るな 来た道じゃ
年寄笑うな 行く道じゃ
何度も引用させてもらっている僧侶の言葉(だったと思う)だが、改めて子どもや年寄りのことではなく、職員と職員の関係において、先のご家族やこの僧侶の言葉に想う。
ともすると「相手を責める・攻める」僕らだが、その刃を自分に向けてみることが大事なのかなと。
子どもが言うことを聞いてくれない時に怒ったり叱ったりするが、それって「子どものため」ではなく「自分のため」ではないかと、ふとそんなことを思ったことのある人は少なくないのでは。
ならば「自分のためにこうしてほしい・ああしてほしい」ということであり、人と人の関係においては「お願い」のはず。
なのに、怒っている・叱っている自分がいたりする。
又親にとって「やってほしくないこと」も、子どもにとって「自分に想いを注いでほしくて惹きつけよう」とする行動だとしたら、「親にとっての都合」に合わせようと怒ったり叱ったりしても、子どもは「してやったり」となり、同じことを繰り返すのも当たり前かなと。
その子どもの行動が「目的」を以ての行動だとしたら、親にとって不都合なことだからといって怒ったり叱っても意味はなく、仮にそれでその行動が一時的に止まったとしても、繰り返すのも当然ではないかと。
つまり、子どもにとっての目的「想いを注いでほしい」に応えていないのだから。
それと同じではないが、職員の出来・不出来を語る前に、職員の想いを知ることなく「出来るように」なんて考えても意味は薄く、本当に意味あるモノにしていくには、遠回りでも「相手を知る」ことからで、そのためには結局のところ「己と向き合うこと」も欠かせないことかなと。
相手を変えるなんておこがましく、とてつもないコトだが、自分と向き合うことで解決できることはたくさんあるように思える。
人の間で生きるから人間で、人間関係は不可避。
介護業界を去っていく人たちの一番の理由は「人間関係」のようだが、それは他人と一緒に生きるしかない人間にとって「普遍的・必要不可欠なコト」で、介護業界特有の話ではないだろう。
まずは自分を鏡に映しだして内のうちまで透視してみてはどうかと自分に問いかけてみた。
優越感や劣等感といったコンプレックスに支配されて「普通の人」を忘れてやしないかと。
自分に「あること」ばかりを見つける内視鏡ではなく、「ないこと」を見つける「無い視鏡」で。
「普通って?」
僕にとって死ぬまでぶら下げていくしかない、大変な自分への問題提起である。
写真
2階のお部屋から下りてきたグループホーム入居者に鏡を見せたら、その映り姿に「大笑い」になったが、見せられた本人は自分じゃないと思っていたのでそれを伝えると又「大笑い」。
いくら鏡に映る自分が見えても、認知症があろうがなかろうが、自分じゃないと思ったら鏡じゃないですものね。見えてないってことですものね。