和田行男の婆さんとともに
「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。
- プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)
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高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。
言えるようで言えない
「自分が夜勤のときを願っていました」
ちょうど3年前、開設時に入居された婆さんがグループホームで亡くなったが、その婆さんを看取ったのは、開設当初からその婆さんとお付き合いさせていただいた四年目を迎えた職員で、その職員がくれた言葉である。
その職員は、介護や福祉とは無縁の学校を卒業した新卒者であるが、縁あって「介護業界」で「僕の関係するグループホーム」で勤めるようになった。
誰もが初めてのことに不安はつきものだが、その職員は人並み以上に不安気で、時間が経過し経験を積んでも「自信」につながっているとは思えない職員だった。
その職員にとって大転機になったのは「死」ではないかと僕は思っている。思いもしなかった入居者の死が、その職員の「何か」に大きな影響をもたらせ、この仕事の中で必要な「何か」を変えたのではないかと。
もちろん「何かが何か」を聞くなんてことはしない。
グループホームで入居者の死が明確になると、ユニット一人の夜勤のため、「自分が夜勤の時は外れて欲しい」と思う・言う職員がいるが、それでふつうだと思う。
自分の目の前で人が死ぬ
それに接することがなくなってきた現代社会である。「こわい」「どうしよう」と思う方がふつうである。
亡くなった婆さんに身寄りはなく、その面ではさびしい人生だったと言えるかもしれないが、最期の3年間だけを語らせてもらうならば、最期まで自分のできることを自分でやろうとし、他人と力を合わせて互いに助け合って生きることができ、社会とつながって生きる、まさに「人として生きることができた」、いやそういう支援ができたと誇れる。
職員たちも誇れているのではないだろうか。
息を引き取ってあの世に召せられるまでの時間、婆さんを肴に宴を開いた職員たち。そのひな壇に、かつてのキリッとした顔で寝転がって参加する「故婆」。
グループホームに来てからつながったご近所の方や民生員さんも来てくれた。
夜中、死亡診断に駆けつけてくれたドクターは「あったかい(処)ですね」と言ってくれ、訪問看護師は「きれいな顔」と言ってくれた。
ここに来るまでの人生がどうあれ、最期のひととき、本人の本当の意思や気持ち(本意)は知り様がないが、最期に看取ってくれた人間が、「自分を選んでくれたと思います。自分の夜勤のときを願っていました」と言ってくれる者であって、どんなに心強かったかと勝手に思う。
「最期に何か言いたいことはないですか」
息を引き取る直前、その職員が聞いたら、大きな口を開けて「何か」を伝えようとしたようだ。
もちろん「何かが何か」なんて知る由もないが、その「?」を残してくれたから、これからもずっと職員たちの中に存在し、宴の肴になり続けることだろう。
心引き裂かれる死に接し、そこから目を背けることなく、己を責めきることなく、その後の時間にいかせたからこそ、婆さんの死に直面してもおどおどすることなく、いや堂々と「どんと来い!」と思えるようになった結果、言えた言葉ではないかと勝手に思う。
「自分を選んでくれたと思います」
介護職員として、言えるようで言えない言葉だ。
人は
人の誕生に人を感じ
人の営みの中に人を感じ
子を育む中に人を感じ
病の中に人を感じ
老いの中に人を感じ
人の死に人を感じる
だからどんな人であっても人の姿は尊く
人と接する時間こそ人にとって最高の学び
僕らの仕事は
それを人に還すことではないか
婆さんたちが、その生きざまを通して「人として生きることを支援する専門職」を育んでくれている。
まさに「婆さんに学び婆さんに還さねば」である。