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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

憧れ 「土着」


 全国各地を訪ねさせていただき、僕がもっとも羨ましく憧れたのは「土着」。
 その土地に生まれ、育ち、成人し、その土地で仕事をする。子どもの頃から転々と暮らしの拠点を移してきた僕にできなかったこと。それが「土着の活動」である。

 土着とは「その土地に長く住みついていること」であるが、長く住み続けるということは、そこに住む者同士の人との関係をも長くする。

 「和田さん、今度、自分の家の敷地にある昔からの家を、幼なじみたちが集まって改装して、集まれるサロンを開こうと思っているんだ」

 なんて聞くと「うらやましいィ~」って叫んでしまう。
 それは東京であろうが北海道・沖縄であろうが同じで、僕にはもう取り戻せないことである。

 でも、まだ先はある。

 60歳を迎える僕にとって「土着」は取り戻せないかもしれないが、「土着の活動に参加すること」はできるし、そこに踏み出すかどうかは僕次第。

 いつかは「土着の活動に参加したい」そう思ってきたが、ちびっこが小学校に入るのを機に、やっとこさ「土着の活動」に参加させてもらえそうなのだ。

 僕が選んだのは「PTA活動」である。

 あるときふと気づいたのは、60歳でちびっこたちが小学生になり、68歳で小学校を終えるということ(四人目ができたので72歳へと延びたが。ハハハ)。
 つまり、少なくとも小学生時代だけでも約10年間はPTA活動ができるということだ。

 なぜPTAかといえば、「認知症になっても住みやすい街を」なんて僕自身がほざいていながら、自分の住む町の人たちとの関係は希薄であり、何とかして一番身近な自分の住む町の人たちとの関係を築けないか、しかも「先々に住みやすい街」を展望していくと、子ども関係で関係を築けないかを考えていたからだ。

 そんな折に、介護業界の仲間たちでPTA活動に積極的に取り組んでいる人たちの話を聞き「よし、これだ!」と思ったのだ。

 しかもいろいろ聞くと、共働きの増加など親の背景もあってか、PTA役員のなり手がいないようで、誰でも積極的に名乗れば「なりやすい」とのこと。

 待ちに待った入学式でいただいたPTAからの役員募集用紙に、きちんと役割第一希望・第二希望を書き込んで提出したところ、先日の会合で見事当選・選出してもらえたのだ。ハハハ、クラスで立候補したのは僕だけだったようだが。

 これで晴れてPTA役員となり「土着活動に参加」できそうである。

 僕の部下(わかりやすく表現)もPTA活動に積極的で、上司の僕を差し置いて副会長になった奴がいるし、僕よりも先に会長をやりたがっている奴もいる。

 きっと僕らに共通しているのは、「社会的な活動への少なからずある使命感への欲」であり、社会的を意識してればこそ、認知症にあっても社会生活をと考えられ、社会生活を送れるようにと考えられるからこそ、身近にはPTAなんだろうなと勝手に思っている。

 行政の大幹部の仲間の中には、行政マンとして住民を啓蒙する前に実践を!と、仕事以上に「おやじの会」なる地域活動に積極的に参加している人がいるが、公務員・医療・介護従事者だけでも、地域活動に参加して、「住みよいまちづくり」を展開すれば、あっという間に「認知症になっても住みやすい街」なんていうのは過去の話になるのではないか。

 この先どうなるか「?」だが、また違う角度から「認知症ケア」を考えてみたい。

写真

 小学生になったばかりの今、往路は、集団登校の待ち合わせ場所から、自分たちで学校まで行けるように上の学年の子どもたちが支援し、帰路は、親が交代で「見守り」に行きます。

 目的は「自立支援」で、自分の子どもと同じコースの近隣の子どもたちを「連れて帰ってくる」のではなく「自分で自分たちの力で帰れるようにするため」で、その見極め期間でもあります。

 ところがどういうわけか、うちのちびっこは大人の後ろを歩くようで、写真のようなことになっていますが、本来は「そっと後ろから見守る」ようで、僕が言う「ストーカーケア」と同じなんですって。ハハハ