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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

次代へ切り拓いていこう!

 けあサポのブログは、いよいよこの回含めて残り二本となりました。2007年から十七年間、ご愛読いただき、本当にありがとうございました。

 批判も受けましたが認知症の状態にある方々のことを「婆さんと総称して呼称」し、「婆さん解放運動」を唱え、この国にとって大事なことは「認知症ケア」と「ケア」にとどめることなく「人権への挑戦」だと書き続け・語ってきました。
 いみじくも「けあサポ」が終了する今年、認知症基本法という法律が施行され、認知症基本法の中に「基本的人権の享有」が謳われたことは、偶然のことではない気がしてなりません。

 1987年、僕が婆さんと初めて出会った頃は「痴呆症」と呼称され「痴呆性老人」「痴呆の人」なんて呼ばれていました。
 大阪育ちの僕にとって日頃から耳にし・口にしてきた「ボケ(老人)」と「痴呆(老人)」が混在して使われていた摩訶不思議な時代でもあります。
 「痴呆ってどういう意味なんやろ」
 その言葉の意味を調べ、それが「ばかげたことをする」と辞書に書いてあったのを見たときから、人のことを「痴呆呼ばわりするのはおかしい」と思いはじめ、人前で話す機会を得てからはそれを人様に伝え、自分たちの実践においても「痴呆扱いはしない」ことを考え方の基本に据えて身近な人たちに仲間になってもらい挑戦してきました。

 1999年、認知症の状態にある方しか入居できない通称グループホームと呼ばれる介護事業の特性を活かし、生活全般の中で「自分でできることは自分でできるように支援する」「互いに助けあって生きていけるように支援する」「地域社会とつながって住民の一員として生きていけるように支援する」を展開したところ、報道番組がその様子を全国に紹介してくださいました。

 大変な反響があったようで、市民からは「うちの身内が入っている介護事業所とは全然違うが、なんで同じ介護事業所なのにこんなにも違うのか」という声が寄せられ、逆に同業者からは「認知症の人に献立を決めさせる、買い物させる、調理させる、掃除させる。認知症の人が住まうとこなのに玄関に鍵をかけないなんて、和田のやっていることは虐待だ!」と大バッシングだったようです(僕に直接言ってくる方はいませんでしたが)。
 当時は「虐待のカリスマ」とまで囁かれていたようで、国の役人さんが丸1日実習(視察)に来られ「和田さん、ここは、聞きしに勝る虐待施設ですね」と笑って帰られましたからね。今、僕のような考え方に対してそんなことをいう人はいないのか聞こえてきません。

 2003年、中央法規出版から出していただいた初めての著書『大逆転の痴呆ケア』にそのことを書かせていただいたところ、これまた大反響があり、同じように思えている人たちがたくさんいることにビックリしました。

 2003年、施設から外に出ることを行政に禁じられていたある地域の介護施設で、情けない話ですが「外(地域社会)に出かけることや出かけた先で調理など自分のことを自分ですることの効果」を研究事業として取り組ませていただき、翌年春開催した報告会で厚労省幹部の方が「行政は現場の邪魔をするんじゃない」と参加していた行政マンに言ってくださったのを聞き、後の挨拶では大勢の人の前でしたが嬉しさのあまり感極まって泣いてしまいました。

 2004年、国は亡き長谷川和夫さん(長谷川式スケールを世に出した医師)たちの呼びかけに応え「痴呆に替わる用語に関する検討委員会」を設置し、「痴呆には侮蔑的な意味がある」とのことで「認知症」に呼称変更しました。
 僕も参考人で招かれ思いのたけを語らせていただきましたが、ついに「痴呆の冠をつけられた人・高齢者・老人」はこの国からいなくなりました。
でも「バカげたことをする人呼ばわり」よりも重要な「ばかげたことをする人扱い」は、まだまだですがね。

 2014年、僕が関係するグループホーム入居者が外に出られ交通事故死した時、警察官の事情聴取で、この仕事に就いて初めて「いくら認知症があるからといっても人権があるからな」と言ってもらえ、ずっと「管理はどうしていた」「鍵はかけていなかったのか」と言われ続けてきた僕は、涙が止まりませんでした。

 2017年・2019年、介護事業所に暮らす・利用する婆さんが接客業に就いて賃金を得る「注文をまちがえる料理店」の取り組みでは、それまでとは異次元の世界レベルで反響を呼び、「間違えることを咎め合う社会ではなく受け止め合う社会にしよう」のメッセージは世界に響く「人類共通のテーマなんだ」と思えました。
 合わせて、一緒にやっている世界レベルで活躍するクリエーターたちの発信力に感嘆し、今も、こういう人たちと力を合わせれば婆さんを取り巻く環境(社会)は、もっと変わっていけるんじゃないかと思っています。

 2023年、「注文をまちがえる料理店」をシンガポールの方々とともに開催することができ、シンガポール政府幹部から「これからは地域社会の中で普通に暮らしていけるようにしたい」との言葉をいただきました。
 2017年初開催から七年経ったにもかかわらず、先日もオランダから日本の社会福祉を見聞に来日された方々からお招きいただきましたからね。
 実は、この時も「嵐男和田さん」の本領発揮でホテルの42階会場が「グラグラ」。地震経験のないオランダの方々の記憶に残したのは注文をまちがえる料理店より地震になったかしれません。

 鍵のかかった建物の中に24時間365日放り込まれて社会から隔離され、身体をくくりつけられたり薬で抑え込まれたりと行動を制限され、同じ髪形にさせられ同じ服を着せられ同じものを食べさせられ同じ時間に起こされ寝かされ、ところかまわずオムツ交換され、混浴に強制入浴させられ、意思の確認もしてもらえず、自分でできることさえ取り上げられ、基本的人権とは無縁の、一般的な国民が生きる姿からほど遠い姿にさせられてきた婆さんたちが、どうすれば「人として生きる姿のままで最期まで生きられるか」「そのために成せることは何か」をずっと考え実践し伝えてきましたが、確実に認知症の状態にある方々の「生きる姿」は変わってきているのではないでしょうか。

 時代は、人の変化とともに動いていく・移り変わっていくものですが、呼称のみならず「婆さん」を取り巻く社会のあり様も大きく動きました。いや、勝手に動いたのではなく多くの方々が動かしてきました。僕も、僕の仲間もその一人であり誇りに思っています。

 認知症の状態にある方々に出会い、そのおかげで、「今の僕が大切にしていること・モノ・人」に出会わせていただきましたし、婆さんには感謝しかありません。
 また、ブログを書き続けさせてくださった中央法規出版の方々、読んでくださった方々に感謝しかありません。
 本当にありがとうございました。これからも皆さんと共に次代へ切り拓いていく所存です。
 残されたブログは、このあともう1本だけです。最後の最後までお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

 ちなみに今後、僕の発信は(株)メディカル・ケア・サービス「健達ねっと」というステージでさせていただきますので、ご愛読くだされば幸いです。すでに「健達ねっと和田」で検索いただければ登場します。
 愚文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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雲龍のごとし!です