小規模多機能型居宅介護探訪記
地域密着型サービスの一つに位置づけられる「小規模多機能型居宅介護」は、「通い」を中心とし、「訪問」や「泊まり」を組み合わせて、在宅生活の継続を支援するものです。
しかし、新築はもちろん、古い民家を改築したもの、会社の寮だったものを転用したものなど、さまざまな形態があるばかりではなく、その中に含まれるサービスの内容もさまざまに進歩しているようです。
ここでは、ご自身も小規模多機能型居宅介護を運営されている柴田範子さんが、全国の施設を訪ねて、その多様性から見えるサービス提供のあり方について、職員養成、地域との関係性も含めて考察したものをご報告いただきます。
- プロフィール柴田 範子(しばた のりこ)
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特定非営利活動法人「楽」理事長、元・東洋大学ライフデザイン学科准教授(2014年3月31日退官)。
神奈川県社会福祉審議会委員や介護福祉士国家試験委員、小規模多機能型居宅介護事業者連絡会理事を歴任。
現在、川崎市、および東京都港区の第6期高齢者保健福祉計画策定協議会委員。
上智大学、東洋大学、日本女子大学、文京学院大学の非常勤講師を務める。
1987年、川崎市においてホームヘルパーとして勤務。
1999年4月、上智社会福祉専門学校の講師として教壇に立つ。
その傍ら、NPO法人「楽」を設立し、2005年4月より東洋大学ライフデザイン学部で講師。
NPO法人「楽」は、川崎市内を中心に福祉・介護にかかわる事業、研修、研究、相談事業等を行っている。2004年4月、「認知症デイサービスセンター・ひつじ雲」を川崎市幸区に開設。2006年5月、小規模多機能型居宅介護・ひつじ雲に移行、同時に同区に認知症対応型通所介護・くじら雲(デイサービスセンター)を開所。くじら雲を2013年9月、ひつじ雲のサテライトくじら雲(小規模多機能型居宅介護)に移行する。ボランティアの方々の協力を得て、地域の食事会やお茶会(ひこうき雲)を続け、7年が経過した。
現在は、介護の質を高めたいという願いを持って、サービス提供責任者の実務研修や、自らの組織のケアの再構築に力を入れている。
第12回 倉敷市・小規模多機能型居宅介護&グループホーム ぶどうの家(続き)
(承前)
ずっと親戚を主介護者として看てきた女性(A子さん)の自宅に訪問し、話を伺えることになりました。テープで記録することも了解してもらいました(計画的な訪問でなかったため、勤めを持つご家族に話を伺うことはできませんでした)。
親の代から「親戚の面倒を見てあげなさい」と言われてきたため、親族6人にかかわってきました。もう、本当に助かっています。もう本当にね。数年間で親族6人介護したんです。
父と母と、今ぶどうの家でお世話になっている96歳の叔母と、それからもう1人暮らしをしている81歳の叔母かな。この叔母がちょっと大変だったんですね。もう毎日、モーニングコールがかかって来て、「来てほしい」って言うんで、子どももいない叔母なので。ほいであとは、子どものいない叔父夫婦。6人を。
ちょっと大変だった叔母は、その当時はまだ自宅に転ぶ前はいたんですね。自分の家で1人暮らしをずっとしていて。ほいで、クーラーもなければ何にもない部屋で。もう全部自分でしてたから。
ほいで、父が死ぬ時に、「何とか冷暖房付けてやれ」っていうことで。それでも叔母は「うん」て言わなくて。で、こっち連れ帰った時に、外の部屋に付けたわけですね。冬場になると入退院がね、ここんとこ心不全起こして入院するんですよね。でも、そのたびに、病院では同じ担当医になるんですけれども、「また元気になって帰るからね」って言うんですよ、先生が「復活したよー」とかって。そしたら、もうシャキーっとして帰って来るんですよ。足もね、本当に。
去年の4月くらいからは、あの私も行かなくって。外の部屋のぞいて、「おはよ、元気?」っていうくらいで過ごせるようにしてくださったんですね。それまでは、朝昼晩ご飯を用意したり、それからトイレの世話から全部してたんですよね。1年くらい。でも本当に全部とってくださって。まあ、ちょっと認知症が来かかっている母を抱えていたので。
だから夜の食事を6時に食べさせようって思って、ここを早く切り上げたり。用事がある時なんかは、朝7時に食事とか持っていくでしょ。そうすると、「なんでこんな早く持ってくるん」とかってね。そいでまたちょっと遅いと、「なんでこんな遅いの」って言うんよね。
最もてこずらせてもらった叔母が、娘の結納の日にトイレと間違え、風呂場で転倒していて、救急搬送されたんです。「異常なし」と言われ、連れ帰らざるを得ない状況。訪問看護、ケアマネジャーさんに頼み込んで、1回だけ叔母の様子をのぞいてもらうようにお願いしました。ぶどうの家のことを聞かせてもらったのですが、自分ではバタバタしていた日なので、ケアマネジャーさんにぶどうの家に連絡してもらい、つながりができましたね。まるでドラマのよう(結果、ぶどうの家に10日間ほど泊まることに。本人の表情が険しくなることを職員は気にかけ、本人の住まいで受け入れられるかどうかA子さんと相談)。A子さんは「主人と娘が協力してくれると言うので、それができました」と。
最期の時、私に「ありがとう」って、最後の言葉を残してね。まあ、娘と2人でみていたので。後で聞くと、娘にもその日に「ありがとう」って言ったそうです。何だか、最期まで看れて幸せだったと思います。ぶどうの家の臨機応変に対応してくださる支援があって。
とても忙しい日々を過ごしていたからでしょう、A子さんは気持ちが揺らぐにこともあり、時間を作っては東京の絵画教室に通い続けたと話していました。自宅兼会社の事務室には、所狭しと、A子さんが描いた絵が飾られていました。
ぶどうの家では、ご本人とそこにかかわっているA子さんの事情をよく呑み込んで、必要なことに対して、すぐに対応しているのでした。
私の住まう川崎市内あたりでは、その「すぐに対応することが難しいんだ」とよく聞こえてきます。理由は職員数がギリギリで訪問もままならないという状況もあるからだと言うのです。ぶどうの家には、その人のことをよく理解する、その人にかかわっているご家族の状況についても理解する、話を聞くと言う大切なことは手を抜かない日々の努力が信頼に繋がる強みになっているのだと思いました。