宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
手話は言語
映画「名もなく貧しく美しく」(松山善三監督、1961東宝配給)を見ました。ろう者夫婦の物語です。妻秋子(高峰秀子)と夫道夫(小林圭樹)の話し合う場面が実に素敵です。
先日、東武東上線で10名ほどの聴覚障害のある人たちのグループと乗り合わせました。このグループは、動きやすい身なりやデイバックを背負っていることから、遊園地かピクニックにでも行った帰りのようです。子どもが4名、大人が6名で、全員手話でコミュニケーションをしています。
朝からの行楽はとても楽しく充実したものだったのでしょう。このグループのメンバーは、電車の中で活きいきした表情で何やら盛んに手話を用いた会話をしています。誰かが冗談を言ったのでしょうか、あるメンバーの手話の直後にすべてのメンバーがどっと笑顔になりました。
周囲の乗客は、最初こそいささかあっけにとられたような表情をして眺めていました。しかし、乗客の多くは、次第にスマホの手を休め、手話で盛んにコミュニケーションを重ねるメンバーに眼をとめて、笑顔の絶えないグループを微笑ましく見守る光景に変わっていきました。
見ているだけで私も心の和んでいくことが分かりました。このグループはピクニックか何かの帰りに楽しい会話をしているだけのようですが、メンバー間のやり取りが実に鮮やかでしっかりしているように見えるのです。
このメンバーの眼が向かい合い、しっかり受け止めあうコミュニケーションのあり様は、手話を言語とする人たちが育んできた文化であるかも知れない。健聴者の方が、眼を向い合せてしっかりと受け止めあうコミュニケーションをおろそかにしがちな時代だからこそ、この電車に乗り合わせた乗客の多くが、羨望の念を込めながら、微笑ましい眼差しをメンバーに向けていたのかもしれない。
そういえば、高峰秀子と小林圭樹がろう者の夫婦を演じる映画があったなと思い出し、この夫婦が手話でどのように会話しているのかを観たくなりました。この映画がつくられることになったきっかけは、監督の松山善三さんがパリのホテルで見た、手話で会話をするろう者の姿に心を動かされたことだったとも伝えられています。
映画のあらすじはインターネットでさまざまに紹介されているので(例えば次を参照のこと。http://eiga.com/movie/38358/)、そちらをご覧いただきたいと思います。ストーリーは東京大空襲に親を亡くした赤ん坊を秋子が救い、連れて帰る場面から始まります。
その赤ん坊は、最初の夫の家族の手によって秋子から引き離されて施設に入れられ、夫が発疹チフスで死亡すれば、秋子はたちまち嫁ぎ先から追い出されることになります。実家に戻れば戻ったで、結婚できないのは耳に障害のある妹がいるせいだと言われ、やくざな弟は秋子が仕事に使うミシンを売り払ってしまうなど、世間の中でも身内の中でも、障害を理由とした著しい差別と不当な取り扱いに遭遇します。
そんな毎日の合間に訪れた聾学校の同窓会で、小林圭樹扮する道夫と出会います。道夫が秋子と上野動物園でデートをする、ついにプロポーズをする、秋子が一人目の子を失って生きることに絶望して家出をして電車に飛び乗ったところを追いかけて二人が電車のガラス越しに話し合う-これらすべてのシーンは、手話によるコミュニケーションであり、眼が向きあいしっかりと受け止めあう二人の姿を表しています。モノクロであることは、手話をする手の動きがとても映える作品に仕上がっている点も実に印象的です。
二人の間にできた子どもは、一人目は亡くなりますが、二人目の子どもは二人の子宝のように育てていくのです。しかし、健聴の子どもは大きくなるにつれてろう者の母親を嫌うようになり、秋子は悩みを深めます。それでも、障害のある人への差別と偏見に満ちた時代に、二人で慈しみあい支え合って生きることを貫くろう者の夫婦。最後は、妻秋子がトラックに轢かれて亡くなるのですが、その後に道夫と子どもが2人で仲良く家路に向かう場面は、親子がしっかりと向き合うラストを表しているようで、心に迫る名シーンです。
名もない市井の庶民が、貨幣経済的な豊かさとは縁遠くとも脈々と積み重ねてきた日常における親密な間柄。喜怒哀楽が折りなす日常にあって、さまざまな葛藤を潜りながら編み上げる慈しみあいの世界は、眼を向い合せ、しっかりと受け止めあうコミュニケーションがあればこそ、営々と積み重ねられてきたのではないのでしょうか。言語である手話は、慈しみあいの世界から遠ざかりつつある現代日本の市民に対して、人たるに値する文化としての言語とコミュニケーションのあり方を提示していると受け止めています。