宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
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- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
人身売買と社会福祉
7月19日アメリカ国務省は『世界の人身売買に関する年次報告書』を公表し、わが国の外国人技能実習制度を問題視して、人身売買の取引防止と被害者保護の取り組みが不十分であると評価しました(7月21日朝日新聞朝刊)。
アメリカの報告書は、人身売買の評価基準を次の3つに分けています。①人身売買防止のための最低基準を満たしている国、②基準を満たしてはいないが努力している国、③基準を満たさず努力もしていない国。
ほとんどの先進国は①で、北朝鮮は③だそうです。日本は②の評価で、人身売買に関する監視対象国です。実は、今から40年前にも、日本はアメリカ国務省から②の評価を受け続けた事実があります。当時の問題は、「じゃぱゆきさん」でした。
「じゃぱゆきさん」とは、1979~2000年代初頭までの間、人身売買を斡旋する女衒(ぜげん)組織によって日本に送り込まれ、売買春の世界で働くことを強要されたフィリピン、タイ、中南米等の女性たちです。
この用語は、「じゃぱゆきさん」問題を追究してきた山谷哲夫さんの造語です(山谷哲夫著『じゃぱゆきさん』、岩波現代文庫、2005年。この本は実に読み応えがあり、日本の真の姿を正視するために、多くの人に読んでいただきたいと思います)。
山谷さんによるこの造語は、幕末から明治・大正時代にかけて、大英帝国の植民地であったアジア各国に慰安婦として送り込まれた九州の女性たちが「からゆきさん」と呼ばれたことにちなんだものです。
からゆきさんの受け入れ側である大英帝国は、植民地開発のために強制的に働かせている下層労働者の中国人やインド人を慰安して足止めすることに目的がある一方、送り出す側の大日本帝国は外貨獲得の尖兵として黙認しました。彼女たちは、最盛時には、年間1000万ドルの利益を上げていたそうです(前掲書、322-346頁)。
1975年、ベトナム戦争がアメリカの敗戦で終わりました。ベトナム戦争の間、アメリカ軍の出撃・補給基地のあったアジア各国には、米兵を相手とする巨大な歓楽街がありました。戦争の終結とともに、それらの歓楽街から米兵は消え、その後釜に据わった客が、日本の企業戦士だったのです。
1981年までの間に、フィリピンのマニラを訪れる日本人観光客は年間27万人を越え、その9割が買春ツアー客の中年男性でした。当時、マニラには日本人専門の「置き屋」が27軒あり、それぞれの置き屋は90~150人の女をかかえていたと言います。
1980年にある計算機メーカーが、200人ものお得意さんをマニラに招待し、大ホテルで同数の娼婦との集団見合いをさせて物議を醸しだしたことがきっかけとなり、現地の反買春ツアーの運動が高まり、日本人団体観光客反対のデモが頻発するようになりました(前掲書、212頁)。
この反対運動の高まりは日本人買春ツアー客を減少させたため、その後は現地の女性を組織的に日本に送り込むようになったのです。この女衒組織は現地のマフィアと日本の暴力団が絡んでおり、貧しさに喘ぐ家庭の娘を人身売買のターゲットに据えたのです。
1980年代まで、わが国の大手旅行会社には、「キーセン観光」の担当者が置かれていました。国際的な批判を浴びて現在では廃止されているようですが、これを利用した男性の話によると、旅行会社の大きな支店の窓口で「キーセンの担当者を」と伝えれば、すぐに担当者が出てくるシステムになっていたそうです。
アジアの国々へ買春ツアーに出かけた大量の日本人男性は、現地の女性に名刺まで渡しており、商社やメーカーの管理職の名刺が大量に現地に残っています(前掲書、114頁)。
これらの名刺は、おそらく偽物ではないでしょう。日本がアジアで断トツの経済大国であった当時、日本の大手企業の名刺を出しさえすれば「いいサービスになるはずだ」という助平根性丸出しの思い上がりがあったのだと思います。
その後、1980年代から2000年代前半までの間、「じゃぱゆきさん」の時代となりました。アジア・中南米から日本に来た女性は約100万人に上り、日本人男性との間にできた子どもたちは推定で10~20万人と言われています。
今、その子どもたちが大きくなって、自らを認知することなく見捨てた父親を探しに日本にやってきているのです(NHK・ETV特集「お父さんに会いたい~“じゃぱゆきさん”の子どもたち~」、2020年5月16日放送)。
売春防止法は1958年に施行されました。1964年の東京オリンピックを控え、人身売買と売買春を社会制度として認めている日本への国際的な批判を免れるための立法でありましたが、女性の人権擁護に係わる前進の一歩であったことは間違いありません。
「娘身売りの場合は当相談所へ御出で下さい。伊佐沢村相談所」という1930年頃の張り紙の写真で有名な、貧困・借金地獄と女性の人身売買・売買春の悪循環を断ち切る社会的な仕組みを、売春防止法はつくることになりました。
この領域でわが国最初の取り組みをしたのは年末の「社会鍋」でおなじみの救世軍です。日本救世軍の創始者である山室軍平は、明治時代の吉原で、人身売買の挙句の果てに病に苦しむ女性の支援に取り組みました。
当時の吉原は遊女たちが逃げ出さないように、遊郭に雇われたヤクザ者が日本刀を腰にさして四六時中見張りをしていました。そこに、山室は丸腰で乗り込み、遊女の救出を図りました。まさに命がけの支援です。
山室たちの取り組みから100年近く経って施行された売春防止法は、人身売買を禁止するとともに、その被害にあった女性を自立に向けて保護する「婦人保護」という社会福祉事業を定めています。それは、婦人相談所と婦人保護施設から構成され、全国的にはマイナーな領域かも知れませんが、私はわが国の社会福祉にとってとても重要な領域だと考えてきました。
この13日、世界経済フォーラムは世界の男女格差の状況をまとめた2022年版「ジェンダーギャップ報告書」を公表し、日本は146か国中116位にランキングされたことが話題になったところです。
私は、このような日本の女性差別の背後に、人身売買を含む売買春を21世紀まで実質的に肯定してきたわが国の男性による支配構造があると考えています。
実際、このような売買春を当たり前と考えている男性たちはそこかしこにいて、臆面もなく周囲の男性に「キーセン観光に一緒しませんか」などと誘っていました。私が誘われた経験も5回ほどあります(もちろん行ったことはありません)。
私や友人の経験から言うと、このような悪癖を持つ男たちは職業や社会階層による違いがありません。ある自治体の議会事務局の職員によると、「視察先」と称する観光地で、夜になって「今から若い女の子と遊ぶことのできる店をすぐに見つけてこい」と言いつける議員が「会派を問わずいる」と嘆きます。
2015年には、横浜市の元中学校校長がフィリピンでの児童買春で逮捕された事件がありました。「四半世紀ほどの間に延べ1万2,660人の女性を買春し、『うち1割は18歳未満だったと思う』と供述した」のです(2015年4月20日、産経新聞朝刊)。この元校長は、妻子持ちです。
じゃぱゆきさんは、観光ビザで送り込まれたまま「不法残留」の状態で働かされました。そのため、検挙されると強制送還されます。
私が婦人保護の領域に関与していた頃の出来事です。強制送還される日まで、ある婦人保護施設に滞在していたフィリピン女性がいました。その女性には赤ちゃんがいて、そこに日本人男性が強制送還される間際の女性に会いに来ていたのです。
婦人保護施設の職員の話によると、子どもを認知することは頑なに拒否しつつ、その女性に対する未練だけで会いに来ているというのです。このようなケースは決して珍しくないとつけ加えました。
売買春の世界に貶められる女性は、精神障害や知的障害のある人の割合が3~5割に上ります。東京都女性相談センターの毎年の業務報告概要によれば、同センターに売春防止法がらみで登場する女性の1/3に知的障害または精神障害(発達障害を含む)のあることが確認されています。
不法残留のまま日本で命を落としたじゃぱゆきさんは、行旅病人及び行旅死亡人取扱法に基づいて火葬された後、本国に遺骨を送るか、身元不明の場合は、たとえば葛飾区の源寿院の無縁仏に行き着くそうです。そこは、「知恵遅れの売春婦たちの最後に行き着くところである」と(前掲書、384頁)。
社会福祉の重要な役割の一つは、健康で文化的な最低限度の生活と個人の尊厳を底支えすることにあります。福祉や介護のただなかで人権侵害が横行する日本の現実は、じゃぱゆきさんで用を足し、ジェンダーギャップランキング116位という現実と通底しています。
ようやくの夏空
この間の雨の降り方は異常でした。全国のダムの貯水率は飛躍的に高くなりましたが、水害も発生しました。ヨーロッパを襲う熱波も猛烈です。SDGsは、国境を越えた地球市民としての取り組みを強化しない限り実現しない宿命を負っています。