宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
PLAN75
映画「PLAN75」(監督・脚本:早川千絵、第75回カンヌ国際映画祭カメラドール特別表彰)を観ました。この映画は、引き込まれるように魅入ってしまいました。
映画の冒頭に、津久井やまゆり園事件を彷彿とさせる場面があります。「衰えた高齢者が生きているのはムダであり、若い人たちにお金を回すべきだ」という「信念」にまみれた若者が、高齢者施設を襲撃した直後、ライフル銃で自殺するシーンです。
続いて、ラジオニュースの音声が流れます。「75歳以上の高齢者に死を選ぶ権利を認め支援する制度、通称『PLAN75』が今日の国会で可決されました」「わが国の深刻化する高齢化問題への抜本的対策として期待されています」と。
75歳になれば、自死することを選択する「PLAN75」の申請書を自治体に提出すれば、10万円の支度金がもらえ、申請順に「死ぬための施設」で人生の最期を迎える仕組みです。死後に集団での火葬と埋葬を選択すれば、無料サービスになる特典もついてきます。
支度金の10万円は、何に使ってもいいのです。葬式代の足しにしても良ければ、美味しいものを食べてもいい。主役の78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)は、「特上のお寿司」を最期に臨んで食べるのです。
角谷ミチは、ホテル清掃の仕事で、同世代の女性と4人組で働いています。それぞれに慎ましい暮らしで懸命に生きています。ところが、この中の一人が亡くなったことをきっかけに、残された高齢者3人はホテル清掃の仕事を辞めさせられてしまいます。
職安に行っても新たな仕事は見つからないし、これまで住み続けてきた団地が取り壊されることも重なります。不動産屋に行っても、仕事のない高齢者に貸してくれる住宅物件はまったく見つかりません。
角谷ミチは夫も子どももいないため、頼ることのできる身内はありません。そうして、生きる術を見失った角谷ミチは、PLAN75を申請するのです。
このようにPLAN75は、孤立した貧しい高齢者が生きる術や希望を剥奪されたところに、「選択の自由」としての「死ぬ権利」を制度的に用意するものです。この制度のPLAN75という通称は、「未来に夢を拓く投資プラン」のような感じがあって、この映画のタイトルにふさわしい。
役所でPLAN75の相談と申請を受ける自治体職員や、申請者が最期を迎えるまでコールセンターで電話応対するオペレーターが登場します。役所の窓口での相談は1人30分、コールセンターの電話対応は1回15分と決められています。
これらの仕事は若い人たちが就いており、ときおりソフトな笑顔での応対を混ぜながら「高齢者を死に導く仕事」を淡々と進めていくシーンはまことに不気味です。
コールセンターの新人オペレーターをベテランが指導する場面があります。
「申請した人もやはり人間ですから、不安が高じて途中で気持ちを変えてしまう人も出てきます。そこで、申請者の不安を静めて死に導いてあげることが私たちの大切な仕事なんですよ」と。(おおよその台詞で、正確なものではありません。でも意味は取り違えていないと思います)
申請者の迷いを取り去って、確実な死に導いてあげることが「仕事」であり、それがわが国の深刻な高齢化問題への抜本的対応であるという設定です。
役所でPLAN75を担当してきた職員は自分の叔父がPLAN75を申請したことを、コールセンターのオペレーターは角谷ミチの担当となって直接会って話したこと(オペレーターがクライアントと直接会うことは職務上厳禁という設定)を、それぞれの契機としてPLAN75の本質的な問題に気づきます。年齢による命の線引きに過ぎないのではないかと。
ラジオニュースの音声が途中に挟まれていました(これもおおよその台詞で正確ではありません)。「PLAN75の開始によって、その周辺での新たなビジネスが拡大しており、景気浮揚策の一環としても期待されています」と。
PLAN75を自治体職員が「笑顔で説明する」場面からはじまり、コールセンターのオペレーターが「死ぬことへの不安と迷いを拭い去る」仕事をして、最期の施設では看護師のような職員が「吐き気止めの薬と水を優しく手渡し」ます。
これらのシーンを繋いだところに描かれる世界は、わが国の社会全体が経済的価値のない人間を死に追いやる不寛容なシステムになっている姿を照らし出しています。
ナチスは閉じられた空間である強制収容所でユダヤ人や障害者を虐殺しました。それと同様の命の選別と虐殺が、新自由主義の下にある開かれた社会システムの中で行われかねない現状にあることを提示しています。
PLAN75の説明に使われる「権利」と「支援」は、わが国における現実の社会保障・社会福祉の本質を暴くキーワードでもあるでしょうか。
競争原理の下で「自己決定と自己責任」の世界に追いやられて生きる術や希望を失えば、「選択の自由」の名のもとに「死ぬ権利」が待ち受けている。そうして、高齢化に伴う財政負担が軽減され、この制度の周辺には新たなビジネスチャンスが花開く。
早川監督は、このような高齢者の制度を作る政府の人は誰一人登場しないように映画づくりをしたと言います(6月28日朝日新聞朝刊)。「いつのまにか政府に密室で決められている感じ、反対したくても、抗う相手の顔が見えない状況を表わしたかったのです」と語っています。
民衆の抱える困難を正視することなく、新自由主義的な論理に従って政策を作ろうとする官僚の世界。このような世界は、昔からずっとあったわけではありません。城山三郎の小説『官僚たちの夏』に描かれたように、忖度や保身を考えることなく歯に衣着せず政治家にものをいう過去は間違いなくありました。
以来、幾星霜。今まさに、社会的虐待の普遍化した現実を正視しない官僚が政策を作り、社会の不寛容さは拡大する一方になっているのではありませんか。
この映画はわが国の今をリアルに描きますが、いたずらにこれからの希望や解決策を提示するものではありません。角谷ミチは、最期の施設に行きますが、様々な偶然が重なり、いただいた命を最後まで生き抜く気 持になってこの施設から抜け出し、朝日を観るシーンで終わっています。
世代間の連帯の向こうに、すべての人の尊厳と幸福追求権の保障が展望できるのではないかという問いかけも含まれていると思いました。高齢者に係わる予算をもっと若者に回すようにすればわが国の未来が展望できるという、世代間対立を煽るだけの陳腐な政策方針の愚かさを突いています。
最後に、この映画は、台詞に多くを語らせるのではなく、それぞれのシーンから問題のリアリティを浮かび上がらせる描き方が貫かれていると感じました。実に奥行きのある作品で、多くの方に鑑賞していただきたいと思います。
七夕の笹飾り―川越熊野神社
もうすぐ七夕です。私が笹に吊るす短冊に願いを託すとすれば、「水不足にならない程度に雨が降り、気温の上限は29℃になりますように」。猛暑で水不足は勘弁してほしい。