宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
家庭料理はケアのロジック
旧聞に属する話です。某県立大学で社会福祉原論を担当する新聞記者上がりの教師が、ある雑誌に書いた「福祉と選択」に係わる論稿を読んだことがあります。その概略は、次のようでした。
社会福祉施設で提供される食事はすべてあてがいぶちではないか。社会福祉施設の外の世界であれば「ざるそばが食べたい」「カレーが食べたい」と自分で選択すれば、すぐに実現できる。そんな簡単なことでさえ、現在の社会福祉はできていない。
確か1990年代の半ば辺りの記事です。「選択のロジック」に向かう社会福祉基礎構造改革を後押しする内容の文章でした。
「これほどくだらない内容の文章をよくも雑誌に書くものだ」と当時の私は呆れ果てました。この論稿で述べる「選択」は、せいぜいサラリーマンのランチの発想です。日々の暮らしの食事に、選択のロジックを普遍化するのは馬鹿げています。
以前職場でご一緒した年配の方に、「昼飯に何を食べるかは人生における重要問題だ」と主張する人がいました。これはこれで、ケアと選択の関係をめぐる面白い話です。
この男性は家で調理をすることはなく、朝食と夕食はほとんどすべてカミさんに作ってもらっています。メニューへの要望や文句をカミさんに訴えて、「じゃあ、あなたが作ったらどうよ」と返されては困ります。そこで、家の食事についてはカミさんの「支配と一体のケア」に服従するのです。
この服従をランチの「選択の自由」によって解放する営みを、この男性は「人生の重要問題」だとしているのです。いうなら、ランチ限定の解放闘争としての『孤独のグルメ』。
しかし、井之頭五郎のように豪華な食事とはいきません。ランチのみの「市場版選択のロジック」ですから、月々のお小遣いの範囲内に限られる制約を免れることはできない。まさに「ざるそば」か「カレーライス」程度。せめて月一で「天ざる」か「カツカレー」にありつければといいというささやかな解放感。
もし、「社会福祉原論」の先生が、この「しょぼい選択」を社会福祉施設の食事に取り入れて然るべきだと主張していたとすれば笑止千万です。
このような食事をめぐる「市場版選択のロジック」は、暮らしの中の「食」ではありません。日々の「食」は、栄養と献立を考え、食材を調達し、調理した料理を味わう「プロセス」です。だから、普段からこのプロセスに参加していない男性(現在は、女性にも普通にいます)は、食事を選択のロジックで考える傾向が強いのです。
食事のすべてを外食やコンビニ弁で「選択」するとしましょう。安く上げようとすれば偏食が重なって体調を崩し、栄養バランスを考慮すればよほど懐具合が温かくないともちません。
昨今、共働きの家庭の増加に伴い、新手の「選択のロジック」が家庭料理に広まっています。家庭の食事を丸ごと「市場版選択のロジック」に囲い込む多様なビジネスの展開です。このような市場を創出する条件は、わが国の長時間労働です。
献立を選択すれば食材とレシピを毎日配達してくれる市場サービスや、インターネット上に掲載された様々なレシピを選択させて食材を届けるビジネスもあります。このような商品の利用者は、あれこれと食事に悩む手間が省け、考える苦労がない。そこが売りです。
このような「選択のロジック」に囲い込まれる料理は、家庭の食事としてとして甚だ疑問だと私は考えています。普段の食事作りを他人のレシピ通りにすることは、少なくとも私にはないからです。他人のレシピは参考にするだけです。
もちろん、初めてトライする食材や献立の場合は他者のレシピを参考にします。それでも、これまでの調理経験と美味しさの記憶を踏まえて、自分と家族がより美味しく味わえる料理を心がけてアレンジします。私と家族は「食事に係わる活動の主体」だからです。
さて、ネット上の料理のサイトを見ていると、ときとして大きな疑問が湧きます。この疑問について、前回のブログでご紹介した「鶏の丸焼き」のレシピから考えてみましょう。
「鶏の丸焼き」の調理で一番のキモは、焼く温度と焼く時間の長さです。さまざまなレシピは、焼く温度が100~200℃の間でバラバラ、焼く時間の長さもバラバラです。
ところが、どのレシピも「ふっくらジューシーに仕上がります」とくる。ここがまことに胡散臭い。YouTubeでは、実際の調理プロセスを流した上で、焼き上がった丸鶏を切り分けて食べるシーンがあって、「とてもジューシーに仕上がっています」と自画自賛する。でも不思議なことに、焼く温度や焼く時間の長さはバラバラ。
調理法は一つではないのかも知れません。が、私が注目するのは丸鶏を焼く「道具」の違いです。プロ用のオーブンと家庭用のオーブンレンジでは、火の入り方や温度の安定性が全く違うのではないかと。
肉や魚を焼く場合、炭火で焼くのと家庭用のガスグリルで焼くのとでは出来上がりに雲泥の差がでます。だから、プロは最適な火の入り方を目指して、キャンプ用の炭ではなく「備長炭」を使う。「焼く」と一口に言っても、道具立てによって遠赤外線や熱伝導の入り方や均質性はまったく異なります。
中華料理店で使う大火力のガスグリルは家庭にはないし、プロの料理人が使う鉄のフライパンも「育てる」必要があるから、家庭では一般的ではありません。私は子育ての渦中に「鉄のフライパンを育てる」ことを試みましたが、初期段階でくっついてしまうことに腹を立てて、フライパンの方は結局「ネグレクト」しました。
料理で大切なことの一つは、食材や調味料は同じでも、調理にどのような道具を使ったのかによって、仕上がりは異なるという点ではないでしょうか。
YouTubeに登場する料理人が、プロ用のオーブンを使って丸鶏を高温で焼いて「ふっくらジューシーに仕上がる」のは決して嘘ではないのかも知れない。でも、「家の道具」でそれを真似るとムネ肉辺りはパサパサの固い仕上がりになってしまうのです。
家庭料理とは、献立を考える、食材や調味料を調達する、持ち前の調理道具を考えて使う、器に盛る、味わう、健康を保持するという一連のプロセスを家族が「活動の主体」として共有することです。つまり、家庭料理は、ケアのロジックそのものです。
「選択のロジック」に任せ、どこかに掲載されたレシピ通りに調理したものを、家庭料理としているとすれば、背筋がぞっとします。それなりに食べることはできるでしょうが、「アンチョコ料理」が食卓に並んでいるだけで、家庭料理の魂は空っぽです。
しかも、「アンチョコ料理」の食卓を囲む親子の会話で、「昨日のテストは何点だったの」なんて親が子どもに訊いているようなら、もはや現代家庭の悲喜劇としか言いようがない。「勉強の仕方を少しは工夫しているの」というような台詞に覚えのある親御さんは、まずは家庭料理にケアのロジックが甦る「工夫」を追求されてはいかがでしょうか。
食卓は家族みんなの「美味しい」を共有する時空間です。
40年以上使い続けるヤカン
このヤカンは、私が学生時代にスーパーで購入した破格の安物です。以来、40年以上、現役で湯を沸かし続けてきました。一応ステンレス製ですが、18-8ステンレスではなく、磁石が強力にくっつく安物のステンレスです。ところが、このヤカンは湯の沸きがメチャクチャ早い。その後に購入したすべてのヤカンを押しのけて、生き残ってきました。
ヤカンであれば何でもいいと思って買った「安物」が、今でも「どっこい生きている」。このヤカンの底の構造に特徴があり、ガスグリルの熱を効率よくヤカン内部に伝導します。湯を沸かすという簡単なことも、道具一つで大違いです。高い道具を使えば、美味しい料理になる訳ではありません。手持ちの道具の使い方を考えて最適化することが大切です。