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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

ケアのロジック

 アネマリー・モル著『ケアのロジック』(水声社、2020年)は、わが国における現行の福祉・介護サービスを考える上で、とても示唆的です。

 本書は、「市場版選択のロジック」、「市民版選択のロジック」、そしてこれらの選択のロジックとは異なる「ケアのロジック」を探究した刺激的労作です(すでに、入手困難な本になっており、出版社には増刷を望みます)。

 わが国の福祉・介護サービスの利用は、契約制を採っています。利用者とサービス提供事業者は、ともに民法上の行為者です。

 障害のある人や高齢の人は、サービスを利用する「市民」としての地位にあって、「市民版選択のロジック」の中にいると同時に、利用契約制は消費者契約法の対象事項になっていますから、「消費者」として「市場版選択のロジック」の中にもいることになります。

 だから、利用者とサービス提供事業者は対等平等な立場で利用契約を結ぶという建前があるのです。が、私の知る限り、利用契約制は形骸化しています。

 以前、障害者支援施設を利用する利用者・家族を対象に利用契約と個別支援計画の実態を調査したことがあります(拙著「施設利用に伴うサービス利用契約と個別支援計画に関する実態調査報告」、一般社団法人全国知的障害者施設家族会連合会編『地域共生ホーム』、196-246頁、中央法規出版、2019年)

 この調査結果は、利用契約制が利用者主体のサービスの向上につながっているところはほとんどないと言ってよい実態を明らかにしました。

 社会福祉基礎構造改革への期待は、利用者とサービス提供事業者が対等な関係にもとづく利用契約を結ぶことによって、利用者本位のサービスの質的向上を実現できるという点にありました。わが国における抑圧的な福祉サービスのあり方が、ようやく変わるのだと。

 旧来の福祉制度が抑圧的なサービスであった事実は、措置費制度によるというよりも、わが国の社会保障・社会福祉の実態が家族と企業内福祉を柱とする家父長制的構造をがっちり形作り、劣等処遇の原則の貫く抑圧が堅持されたところにその正体があります。

 家父長制においては、ケアと支配は一体のものです。この家父長制的なケアと支配の一体的構造を転換することへの期待が利用契約制にありました。が、今のところ、幻想に近くまったくの期待外れです。わが国におけるケアの構想に大切な何かが欠如しているとしか思えない。

 モルは同書の冒頭で二つの興味深い例を挙げています。

 一つは、生殖医療をめぐる例です。高度な生殖医療をめぐる利点と欠点、リスクと生活上の制約などは患者が十分理解することにとてつもない難しさがつきまといます。ところが、患者がどのようなリスクがあろうとも「子どもが欲しくて仕方ないんです」と「選択」することによって、複雑な問題は「個人的な関心に変換」されてしまうと指摘します(同書20頁)。

 この選択は、サービスの「私化」と「自己決定と自己責任」に直結しています。

 もう一つは、精神病院に入院した患者さんの事例です(同書22頁)。この患者は「起きたくない」とベッドから出てこないのですが、この患者に自傷他害のおそれがないのであれば、本人の選択を尊重すべきなのかどうかを問います。

 ここで、この精神病院に十分なスタッフがいるのであれば、「選択を尊重する」前に患者のベッドのそばに看護師を座らせて、「どうして起きたくないのか」を尋ねさせる運びになるはずだと言います。奥さんがその日は見舞いに来ないからふさぎ込んでいるのかも知れない、二度と病院から出ることができないと怯えているかも知れない。

 そこで、「起きたくない人はケアを必要としている」のであって、ベッドに留まるという選択肢を彼に与えることは「ネグレクト」であり、この点において彼を強引に起こそうとすることと何ら変わらないと指摘するのです。

 つまり、選択のロジックとは全く異なるところに成立するものがケアのロジックということになります。モルは、すべての選択を疑うわけではなく、選択の普遍化を疑うのです。患者の選択を強調し続けることは、「善いケア」への改善をもたらさないと言います。

 契約利用制で前提される「市民」とは、「自律した個人」のことです。モルは、食べ物や衣服を得るためにすべての人は依存しているし、人間はそもそも生存するために長期間他者に依存しなければならないのであって、「自律した個人」ではないところにケアのロジックをはじめて組み立てられるのだと考えます。

 選択こそが受動的な立場を強いられた利用者を解放するものではありません。サービス利用者はまず選択の主体として表れるのではなく、活動の主体として表れます。なぜなら、生活の主体は利用者ですから、「善い生」を実現するための「ケアチームの重要な一員」だからです(同書67頁)。

 とくに、市場化されたサービスがいかにケアのロジックと乖離しているのかを明確に提示します(同書58~61頁)。

 「あらゆるものは市場で取引されうる。機器、技術指導、あるいは親切や配慮でさえも。だから、ポイントは、市場が冷淡で距離を取った関係を生み出すということではない」。

 「市場は、取引において持ち主を変える明確に定義された製品を必要とする」ために、「売りに出されているものとそうでないものは特定されなければならない」から、「市場は線を引いている」ことを端的に指摘します。ここで、「介護の生産性」という考え方が成立します。

 ケアのロジックは決定的に異なります。

 ケアはプロセスであり、明確な境界を持たないし、持ち主を変える製品ではない。ケアとは、複数の手が一つの結果のためにともに働くことであり、交換される何かではなく、(進行中のプロセスにおいて)行為が行き来する中での相互作用です。

 モルは、ケアのロジックについて糖尿病患者のケアを例証に選択のロジックと対比させながら議論を進めています。そこで、モル自身は、他の疾患や障害のある人のケアのロジックについては読者が深め考察して欲しいと問題提起しています。

 ただ、モルの問題提起は、選択のロジックを否定するのではなく、それを越えたところにケアのロジックを組み立てています。その焦点は、「ペイシャンティズム」というモルの造語に見ることができます。

この造語は、フェミニズムとの類比にもとづいています。男女平等とは、女性が可能な限り男性と同じようになることを意味してきた経緯がありました。ここでは、「男性」が基準となっている根本的な問題があるため、「女性」と「男性」という定義そのものに疑問を突きつけ、男性を標準とするのではない女性の権利運動を構想しようとするのが「フェミニズム」です。

 そこで、「ペイシャンティズム」とは、「患者」と「健康な人」の平等を求めるのではなく、「正常」のかわりに病気とともに生きることを標準として構想しようと試みるのです。ケアのロジックは、形骸化した対等平等な契約幻想を乗りこえ、多様性が真に尊重される共生社会を実現していくための展望を拓いています。

花粉まみれのミツバチ

 今年も、ミツバチがわが家の庭に咲き乱れるブラックベリーの花に日参するようになりました。スマホの写メが全盛期の今でも、一眼レフはネイチャーフォトの領域では絶大な威力を発揮します。マイクロレンズでミツバチを撮影してみると、肉眼では視認できないハチの生活世界が広がります。全身花粉にまみれながら一所懸命に蜜と花粉を集めています。