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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

含み資産の負債化

 前回のブログで取り上げた教育虐待・教育ネグレクトの深刻な広がりは、今日の家庭と学校が子どもを守り育む役割を果たせなくなっている現実を示しています。

 この現状に対して、今の親や教師が「ダメなんだ」と紋切り型の責任追及をしても意味はありません。家庭と学校の努力だけでは子どもを育むことができなくなっている問題は、社会の構造的な変化によるものだからです。

 周囲と隔絶されたカプセルのような家庭の中で子どもを育てる営みは、長いわが国の歴史の中で、この半世紀余りの特異な現象です。以前このブログでも(2020年11月30日ブログ)、1960年頃まで子どもたちは「地域で放牧されていた」事実を指摘しました。

 教育虐待の多くは心理的虐待の一種ですが、児童虐待防止法にもとづく虐待対応に結びつきにくい特質を持っています。

 身体的虐待や衣食をめぐるネグレクトは、貧困と背中合わせの傾向が強く、児童虐待防止法の施行以降、発見から通報に至る精度と迅速さが上がってきたように思います。

 それに対して、教育虐待は虐待の発生が周囲から想定されにくい中流以上の社会階層で広がりをみせ、心理的虐待による子どもへの影響の表面化にも長いタイムスパンがかかることによって、「今ここで」問題視されにくい特徴を持ちます。

 加害者の多くが「あなたのためを思って」子どもたちに教育・習い事・スポーツ等を押しつける一方で、子どもたちは親や教師・指導者の期待に応えようとするのですから、ますます問題は表面化しにくい。

 教育虐待については、児童精神科医で青山学院大学教授の古荘純一さんが、臨床的な知見とともに社会の構造的な問題を視野に入れ、的を射た議論を展開されています(古荘純一『教育虐待・教育ネグレクト―日本の教育システムと親が抱える問題』、2015年、光文社新書)。

 「小1プロブレム」が近年大きな問題になっています。小学校に入学したばかりの一年生が、「集団行動がとれない」「座っていられない」状況が数か月たってもおさまらない問題です。この「小1プロブレム」について、古荘さんは次のように指摘します。

 まず、わが国の保育所・幼稚園は、海外の実態と比較して「大勢の子どもたちを一人の保育士・教師がみなくてはいけない状況」を放置したまま、保育所・幼稚園の「遊び」を中心とした「体験型」から、小学校の入学からいきなり「座学型」に変わる問題を抱えています。子どもたちが小学校教育に徐々に慣れていくプロセスが不十分なのです。

 だから、「小1プロブレム」は家庭や地域における「学びの環境が大きく変化しているにもかかわらず、旧来の就学前後のシステムを継続させているために生じている問題」だと指摘します。この問題を就学前の家庭教育の問題(「親がダメだ」)や発達障害に帰結させる考え方は間違いであり、「子どもたちに問題があるわけではない」といいます(121-124頁)。

 さらに、私が特に共感する古荘さんの問題指摘に、「高校野球と教育虐待」(83-90頁)があります。

 アメリカのスポーツ専門のジャーナリストが日本の高校野球を取材して、「投げ込み」という日本独特の練習文化の存在や、高校野球の大会で投手が「9日間に772球も投げる」事実を知り、「若い投手を壊す日本野球の信念」を批判したことを紹介し、日本の高校野球のシステムそのものが教育虐待を産み出している問題を明らかにします。

 地方県から夏の甲子園大会に出場することになった高校の地元に、私が行った時のことです。地元の人たちはさぞ喜んでいるだろうと思って声をかけてみると、意外な返答が返ってきます。「あの高校の野球部はほとんどが県外からの寄せ集めだから、地元感はまったくないのですよ」と。

 甲子園への出場に期待の持てる首都圏の高校に進学した知人の子どもがいました。この子は根っからの野球少年です。ところが、この野球名門校はレギュラーに必要な人数の3倍ほどをスカウトで集めており、一般入試から野球部に入る生徒については「3年間球拾いだけ」の扱いです。もちろん、その子は現実を知ってすぐに退部しました。

 このような世界が公益財団法人日本高等学校野球連盟によって「教育の一環としてのお墨付き」を得て、日本を代表する大新聞2社とNHKは「高校野球」を美しい世界に持ち上げる報道に力を入れてきました。「子どもの側」に立って高校野球の問題を明らかにして改善するジャーナリズムと大人の責任を二の次にして、ご都合主義にまみれているのです。

 高校野球での連投については改善策が取られるようになっているようですが、「今さら」感は拭えません。野球部員の喫煙や暴力問題に注意を向けるだけでなく、教育虐待を産み出す体質と甲子園大会を頂点とする高校野球システムの根本的改善が必要でしょう。

 このように、教育虐待については、問題を産み出したまま放置している組織・親・教師・支援者に、問題改善に向けた課題意識が希薄である、あるいは、いささか無頓着である点がとても心配になります。

 それぞれの家族の中で母親を中心に営まれるという子育てイメージにしても、「大昔からずっとそうだった」ように考えられている場面に出くわすことがしばしばあります。

 教職大学院に来た現職教員である人たちに、私が「それぞれの家族だけで子育てに責任を持つシステムになったのはこの50年ほどの現象だ」と説明しはじめると、驚かれてしまうのです。高度経済成長期後半以降の家族像が、強固な家族イデオロギーになっているのではないでしょうか。

 赤ちゃんの授乳の問題一つを考えただけでも、母乳の出具合には個人差があるために、「もらい乳」「乳持ち奉公」など赤ちゃんの授乳をめぐる「いのちのネットワーク」が地域社会には必要不可欠でした。

 たとえば、沢山美果子さんが『江戸の乳と子ども―いのちをつなぐ』(2017年、吉川弘文館)で明らかにしている「いのちのネットワーク」は、粉ミルクが大衆的に購入できるようになる1960年前後まで続いて来ました。

 それは、子どもたちが「地域で放牧されていた」時代と重なります。つまり、子どもを育む営みは地域社会のネットワークによるものであることは長い歴史の中では当たり前のことだったのです。

 高度経済成長期をある種の「成功体験」とする誤った認識と「自己決定と自己責任」を基調とする新自由主義の価値観が、子育てを家族の自己責任に還元して、教育虐待を産み出す社会の構造的問題に対する無頓着さを大人たちに生じさせているのでしょうか。

 このような課題意識を社会が共有せず、抜本的な制度改善にも手を打たないまま、家族を民法上の「含み資産」と位置づける「家族依存型」の子育て・教育・福祉・介護はすでに破綻しています。

 家族内部の愛情と憎しみは紙一重だと指摘されてきました。それは現代の多くの家族が慈しみ合いを育むに足る生活条件を欠いているからです。そうして、多くの家庭が児童虐待防止法上の虐待だけでなく、教育虐待・教育ネグレクトを発生させるようになっている事態は、家族をめぐる心象風景が「愛情」から「憎しみ」に振れていることを表わしています。

 つまり、家族のもつ慈しみ合いのための「含み資産」は憎しみの「負債」と紙一重の関係にあって、現代の「家族依存型福祉」は「家族内部の虐待発生」に振り切れるようになっているのです。家族にしがみつづける福祉政策は時代錯誤です。

ブロッコリーの花

 ブロッコリーの花をはじめて見ました。花言葉は「小さな幸せ」。支え合いと手ごたえのある日々の生活と安心に満ちたコミュニケーションの中で紡いできた民衆の小さな幸せ。それは、競争に勝ち抜くための強迫と不安に煽られて解体されつつあるのです。