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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

ケア宣言

 ケア・コレクティヴ著『ケア宣言-相互依存の政治へ』(2021年、大月書店)を読みました。注目に値する書で、多くの皆さんに一読をお薦めします。Covid-19禍のイギリスで2020年に出版されたものの邦訳で、瞬く間に世界中で訳されています。

 Covid-19禍は、ケア実践やケア労働の重要性とそれらを貶めてきた新自由主義に基づく政治と社会の問題を明らかにしました。本書は、このような新自由主義的な世界(家族・コミュニティ・国家・経済、地球環境)のあり方を越えて、「ケアを中心に据えた対案を構想」するものです。

 マーガレット・サッチャーの心酔したハイエクはリバタリアニズム(自由至上主義)に基づいて「国家を市場に埋め戻す」ことを主張しました。そこで、サッチャーはケインズ主義福祉国家を縮減から解体に向かう政策を推し進めます。

 わが国では、1981年中曽根内閣が進めた第二臨調・行革のバックボーンに、1982~86年の間、日銀顧問を務めたミルトン・フリードマンがいました。彼も、福祉国家を解体するリバタリアニズムを主張していました。

 フリードマンの『選択の自由-自立社会への挑戦』(1980年、日本経済新聞社)は、「福祉国家脱出のために」(190頁)の中で、次のように述べています。

 「現行の福祉政策の大半は、そもそも制定されるべきでなかった。制定さえされなかったならば、今日ではこれらの政策に依存しなくてはならなくなっている人々の多くが、国による被保護者となるのではなく、自立している個人であったはずだ。短期的には、ある人びとにとっては冷酷なように思えるが、これらの人びとを福祉政策に依存させておくよりは、低賃金で魅力少ない仕事であってもそれらの仕事に従事させるべきだ。そうすればはるかに人道的な結果がもたらされる。」

 このような野蛮な主張にもとづいて福祉国家を縮減・解体してきた挙句の果てに発生したCovid-19禍は、皮肉にも、非人道的世界が途方もなく拡大し、仕事を失って路頭に迷う人たちを増大させ、生活保護受給者の拡大に行き着いている現実を露わにしたのです。

 今年度、さいたま市障害者の権利の擁護に関する委員会では、「Covid-19禍における差別・困難事例」を市民に呼び掛けて収集しました。集まった事例の多くは、Covid-19以前から地域社会に存在した差別や困りごとをひき起こす構造が、Covid-19禍によってあぶり出されたものです。

 ケアを必要としている人たちに、いかにケアが行き届いていないのかを思い知らされるたくさんの事例が集まっています。「ケアされていない」という事実は、新自由主義の下で正視されないまま配慮されず、放置されてきたのです。

 このような事態について『ケア宣言』は、「アンナ・ハーレントの有名な言葉を使うならば、組織的なレベルの凡庸さが、日々の生活の中でのケアのなさにまで浸透している」と指摘します(同書8頁)。

 つまり、ケアが貶められている凡庸な「悪の陳腐さ」は、ユダヤ人や障害のある人などに600万人もの犠牲者を出したナチズムのシステムとそのキーマンであったアイヒマンと同質だというのです。

 本書は、新自由主義と一部のマルクス主義にみられる基底還元主義的な前提からケアに満ちた世界を構想するのではなく、「ケアが真に組織の中心原理となり、『ユニバーサル・ケア』が根底的なモデルであるような社会の中に、経済を埋め込まなくてはなりません」(同書、128頁)と主張します。つまり、「市場をケアに満ちた世界に埋め戻す」のです。

 すべての人がケアの提供者であると同時にケアの受け手であるのです。この事実は、依存と自立が対立するものではなく、一つの事実の両面に過ぎないことを意味します。フリードマンの主張する福祉国家の下での依存と自立は相反するものと捉える考え方こそが虚構であり、実は富裕層はもっとも依存的な生活をしていることになります。

 ケアを顧みない支配的なシステムがどのようにして出来上がったのか、そして、ケアに満ちた政治・親族関係・コミュニティ・国家・経済とは何かを論じ、最後に「世界のケア」について展開します。

 本書は、フェミニズムを出発点にしながらも、親密圏と公共圏に係わる議論や福祉国家論に係わる発展的で精緻な議論を展開しています。分かりやすい訳文であることは特筆できますが、本書の内容を読み解くにはかなりの力量がいるかも知れません。

 さて、わが国の歴史と現実を踏まえると、本書のいうケアに満ちた世界の実現には、本書が執筆されたヨーロッパとは異なるいささか高いハードルがあるように思えます。

 一つは、わが国は未成熟な福祉国家のステージからいきなり新自由主義に突入した歴史的経緯がある点についてです。1973年に迎えた福祉元年は、同年のオイルショックと共にしぼんでしまいます。

 ヨーロッパのような一定程度成熟した福祉国家政策の充実と教訓に乏しく、「公助に依存しない自立論」が貫く「組織的な凡庸さ」は、家族・コミュニティ・国家・経済に強くはびこりがちな状況があります。

 たとえば、教育虐待(競争社会を勝ち抜くために、親の過剰な教育熱から子どもに自立を迫る不適切な養育または虐待)の氾濫は、子どもを慈しむはずの親密圏においてさえ、新自由主義的な自立観が蔓延している現実を提示しています。

 もう一つは、中央政府の政策に抗して、ヨーロッパのいくつかの自治体が「ケアに満ちたコミュニティの実現への挑戦」する事例を本書は紹介している点です。このような事例のレベルで、地域社会の自治に立脚したケア政策の構想を立案し、その実現を図ろうとする担い手と実例は、わが国の地方政治には今のところ見当たりません。

 中央政府の意向に即した新自由主義の範囲内で影響力を誇示しようとする勢力や、地域の現実に即して政策立案する能力の希薄な人たちが、わが国の地方政治の世界に跋扈しています。

 『ケア宣言』の主張する「ケアに満ちた世界」の実現は、トップダウンによるものではなく、水平的なエンパワメントに基づくものであることを踏まえると、わが国の地域における足場の心許なさは深刻な事態にあるのかも知れません。

 Covid-19禍の下で、民衆の生活困難と貧困が蓄積する一方で、富裕層の資産はますます拡大していると指摘されています。このような格差の拡大は、現在のシステムが構造的に産出する必然に過ぎません。

 市場は国家と社会から自由であるべきだと新自由主義は主張してきました。が、「このような自由市場は存在したためしがありません」(同書130頁)。富裕層は、Covid-19禍においても国家を通じて、国家に寄生して、あるいは国家を活用して、富の独占を拡大しているのです。

 本書は、ケアを顧みないわが国の現状を、ケアする人たち―ケアを提供し、かつ、ケアを受け取る人-の連帯によって変革していくことへの展望に重要な問題提起をしています。

そこかしこに空き店舗が

 川越の中心部の商業用店舗には空きが目立ちます。東京の中心部でも空き店舗はそこかしこで見られます。飲食店をはじめとする首都圏の商業店舗は、東京2020の「空振り」が耐え難い打撃だったのではないでしょうか。私の入ることの多かったお店もかなり廃業しました。このような光景が広がる中でも、ますます豊かになっている人たちがいるのですね。