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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

娘から生理的に嫌悪される父親

 思春期に入った女子が、父親を「生理的に嫌悪する」現象があります。

 すべての女子が必ずそうなる訳ではなく、どのくらいの割合の女子がそうなっているのかは定かではないものの、一群の若者女子に父親を生理的に嫌悪する事態があることをこれまで確認してきました。

 大学の教師を勤めていると、若者の姿を通じて、時代の変化やモノ・コトの流行りを知る機会がふんだんにあります。でも、この30年々余りの間、一貫して変わらない現象もあるのです。それは、「思春期の娘が父親を生理的に嫌悪する」という事実です。

 女子学生自身の「父親が生理的に嫌いだ」「嫌いだった時代がある」という告白を聞かされ続けてきました。私の娘がまだ小さかった時代には、「先生の娘さんも、思春期になったらお父さんはとにかく嫌い、って思うようになりますから覚悟しておいた方がいいですよ」とまで、多くの女子学生から忠告されました。

 ちなみに私の娘には、このような現象は殆どなかったように思います。「生理的嫌悪」というより、思春期の反抗期はありました。

 この現象には、謎が多いのです。「毒親」「毒父」の概念からは外れています。「生理的に」というところが謎のキーポイントで、ほとんどの女性は20代の後半までに「父親の受容」期に入るようです。

 女子学生から最も多く聞いた事例は、「私の洗濯物を父親の汚れ物と一緒にして、絶対に洗わないで欲しい」という声。その他、「土日に父親が家にいるだけで疎ましい」「父親と二人で外に出掛けるのは絶対いや」「外では離れて歩いて欲しい」などが目立つところです。

 父親の側からも、娘に嫌悪されている事実を確認することができます。旅先でキャンピングカーを見かけると、中年から初老の男だけのグループをかなりみかけます。北海道の十勝連峰の麓と伊豆の海岸沿いの、たくさんのキャンピングカーが駐車していたところで、声をかけてみました。

 すると、齢を重ねて少し余裕が出てきたので、これからは家族みんなでいろんなところへ旅しようとキャンピングカーを購入したのだが、女房と娘からは「あんたとだけは一緒に旅行なんてしたくない」「お父さんと一緒の旅行はしません」と素っ気なく拒否されたと言います。

 しかし、このような事態は、世界中で確認できる普遍的な現象なのでしょうか。欧米の人と外国研究している日本人の研究者に過去30年間、このような現象があるかどうかを尋ねてきましたが、これまで「ある」と回答した人に出会ったことはありません。

 むしろ、ヨーロッパでは思春期の後半以降、父親とのコミュニケーションは活発になるという答えが多いのです。そこで、歴代のゼミ生たちとこの謎を解くための議論をしてきました。未だに謎が解明されたとはいえないのですが、議論の到達点は次のようになっています。

 まず、思春期になった多くのわが国の女子は、父親が「男であること」を降って湧いたように気づかされる問題です。

 ハグ文化のある欧米では、父と母は「子どもに対する親」であると同時に、アソシエーション家族の構成軸である「男女」であるため、家族の日常生活世界で父母が性的主体であることは子どもたちにとっても自明のことです。

 それに対して、わが国の家族は、子どもの思春期以前のステージまで、父母はあくまでも「子どもに対する親」に特化されています。性器の違いによる男女の区別は教えられますが、性的主体であることの意味と行為は、家族の日常生活世界の中で語られることは殆どありません。

 父母の性的主体としての相互の交わりは、子どもに隠されているか秘密であることによって、子どもにとってはぼんやりとした事象にとどまって意識化されることはありません。

 日本の子どもたちが思春期を迎えると、ようやく自分がどのようにして命を授かり、両親の下にいるのかを始めて自覚するようになります。つまり、両親が男女という性的主体として、特定の性愛行為を交わした事実に自分の出自の原点のあることを、青天の霹靂のように知るのです。

 女子が、思春期にして、「男としての父親」が「母という女」と交わした生々しい行為に思いを巡らした瞬間、父親に対して「汚らわしさ」を感じるようになるのです。

 次に、母親に子育てと家事の役割を背負わせてきた家族の問題があります。子どもが幼い頃から、ずっと父親は仕事一途に過ごしてきた。

 子どもが思春期に入ると、高校・大学の受験や就職が課題に登場します。このステージで突然、父親が「ここは俺の出番だ」とばかりに子どもへの関与をはじめます。

 話題の焦点は受験や就職ですから、「わが子の人生を左右する重大事である」との父親なりの自覚に立って、子どもとのコミュニケーションを図ろうとします。

 ところが、子どもが思春期になるまでのステージは、子育てと家事を母親に委ねてきたのですから、日常的な子どもとのコミュニケーションのこれまでの積み重ねがあるわけではありません。父親の抱く人生観や世界観などについて、子どもは知る由もなかったでしょう。

 子どもが思春期になるまでの間、わが子との親密さや良好な関係性を土台に築き切れていないことに留意しないまま、父親は自分の価値観を色濃く反映する人生の選択肢について、あれこれ話すようになるのです。

 父親は、何も自分の価値観を押しつけようとしている訳でもないし、社会現実に即した情報と知恵を提供しよう心がけているのかも知れません。だから、子どもへの関与には不適切な要素はあるとしても、虐待とは言い難いし、毒父とも言えない。でも、子どもにとっては、まことに疎ましい。

 母親は家事・育児の日常生活世界を通じて、子どもたちとの相互作用の積み重ねがあります。それに対して、育児を母親に任せきりで、自分とあまり係わりのなかった父親が、子どもの進路のこととなると、母親を差し置いてまでしゃしゃり出るのです。

 娘は、同性である母親の家事・育児の苦労を日常的にみてきましたから、突然口を出すようになった父親に対して、「余計なお世話的圧迫感」を感じ嫌悪するようになる。

 このような「圧迫感による嫌悪」と、先に指摘した「男である父親は、女であるお母さんとHした」という「汚らわしさ」の青天の霹靂が交錯したところで、女性の思春期における「父親に対する生理的な嫌悪感」が産出されるのではないでしょうか。

 以上は、現時点での仮説です。謎はまだ解けているとは思っていません。ご意見をお聞かせください。

静かな「蔵造の街並み」

 さて、Covid-19の感染が下火になり、川越の一番街は食べ歩きの観光客で溢れています。私が引っ越してきた30年ほど前は、ここには地元住民が日常的に利用するお店がたくさんありました。今は、地元民が利用するお店はほぼ消えてしまい、一見さん相手のお店ばかりが目立ちます。観光客のいなくなった夜分の蔵造の街並みは、静かな佇まいの中に本来の風情を感じさせてくれます。