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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

Covid-19禍に発生した差別事例集の作成

 さいたま市のノーマライゼーション条例に基づく当事者市民の参画組織である市民会議は、今年度、Covid-19禍の下で発生した障害のある人 の困難や差別を集める試みをしています。

 たとえば、Covid-19の問題が発生して以来、すべてのスーパーマーケットで「お買い物はお1人で短時間に済ますようにお願い申し上げます」と繰り返しアナウンスしてきた副産物があるのです。

 このアナウンスは店内で3密を回避するための注意喚起ですが、介助者と一緒で、買い物に時間のかかる障害のある人たちへの無理解を強めることにもつながっています。

 視覚に障害のある人は、商品に手でふれて買う物を確かめます。この必要不可欠な行為が、「むやみに商品に触れている」かのような誤解を招いた指摘もありました。視覚障害のある人たちが顔全体で得ている情報をマスクが遮ってしまう深刻な問題も発生しています。

 その他にも、さまざまな障害特性に係わって、Covid-19禍の下で発生した困難や差別のあることが市民会議で報告されています。

 「Covid-19禍」という特定の状況の下で発生した困難・差別事例は、歴史的な教訓としておくべきものと考えます。中長期的な取り組みを重ねることの必要性の高い課題が多いかも知れませんが、どのような困難・差別がCovid-19禍の下で発生したのかを徹底して明らかにしておく必要があると考えています。

 そこで、来年度のさいたま市障害者権利擁護委員会では、Covid-19禍をめぐって発生した困難・差別事例集を作成したいと考えています。今後の施策や取り組みに活かす貴重な資料となることは間違いないでしょう。

 さまざまな差別・虐待事案と向き合うと、事案ごとに発生の機序と趣が異なることが分かります。確信犯的な事案、無自覚を装う事案、無自覚そのものの事案など様々です。

 差別・虐待の中には確信犯的な行為があり、このような性質の差別・虐待については、何らかの社会的懲罰が必要だと考えています。中には、氏名の公表に社会的制裁がとどまることを「含めて計算し実行している」差別さえ間違いなくあります。

 問題は、「無自覚」な状況から深刻な差別・虐待が発生する事案です。この場合、「無自覚」な差別・虐待が発生するメカニズムを分け入って明らかにしなければ、差別・虐待の防止にはつなげることができません。

 以前、ある小学校の特別支援教育コーディネーターの先生にヒアリングする機会がありました。その先生が教室のいじめの発生について次のようにお話しされたことは、とても印象に残りました。

 教室の子どもたちの中では、いじめようとするベクトルと仲よく協力し合おうとするベクトルが常にせめぎ合っています。このせめぎ合いの続く尾根筋を歩き続けながら、仲よく協力し合う方向に流れる分水嶺を子どもたち自身の力で作れるように支援することが教師の務めであるとお話しされました。

 現在は、学校も職場も、また多くの家庭でも、人生で「勝ち続ける」ことに至上の価値を置こうとする傾きが強い。「勝ち続ける」ことは他者を排斥し続ける営みです。その一方で、ダイバーシティの実現を目指して人間の多様なあり方を尊重し活かし合うことの価値も重視されるようになってきました。

 そこで、相反するベクトルがせめぎ合う「稜線を歩き続ける」ことの大切さへの自覚がまず求められるのです。

 しかし、このような自覚が形成されないまま、自分の欲の実現をもっぱら優先する生き方を肯定する風潮が強い。そして、「今ここで、自分がよければそれでいい」とする日常生活への埋没が、「無自覚な」ハラスメント・差別・虐待の発生につながっていくのではないでしょうか。

 「今ここで、自分がよければそれでいい」という発想は、他者への配慮ある関心を捨象しますから、自らの行為が他者へのハラスメントや人権侵害に通じていることの「自覚」を生むことはありません。

 むしろ、このような「自覚」を持つことは「今ここで自分の欲求を実現する」ことにブレーキをかける障壁となりますから、他者との関係を含めて自己省察を深める考えの運びそのものを断ち切っておいた方が楽に生きることになるのです。

 2月18日の朝日新聞朝刊で、早稲田大学教授の豊永郁子さんは、「自分がよければそれでいい」という新自由主義の「自助」のなれの果てに、環境や人権を顧みないトランピズムを産み出したと指摘しました。

 新自由主義の野蛮なリバタニアリズムが、「今ここで、自分がよければそれでいい」とする社会的性格を民衆に浸透し蔓延させてきました。わが国では、1980年代後半のバブル経済の時代に発端があります。

 「幼児的な自己中心性」ともいえる社会的性格が民衆を支配したとき、感染者数や死者数は抽象化してしまいます。

 Covid-19の報道は、感染者数、死者数、病床使用率、重症者数等を毎日出してきます。生身の人間の問題として考えれば、一人でも感染者や死者が出ている限り、人間の命を守り切れていない重大な事態にあると考えるのが、慈しみ合いを基調とする人間にとっては当たり前です。

 ところが、これらの「数」はすべて抽象化され、「二けた」になれば「緊急事態宣言の解除」としたり、「経済と感染防止のバランスを判断するのは政治家の務め」だと言うのです。

 感染者と死者の発生は続いているとしても、「数」が小さければ、飲み食い自由で、オリビックを開催するのも当然で、「少数の犠牲者は止むを得ない」ものだと処理していくのです。まるで「大本営発表」のようです。

 資本蓄積の拡大の自由に従属して少数者へのしわ寄せを正当化することが、障害のある人たちへの人権侵害行為への無自覚を産出する土壌であることは間違いないでしょう。

渡りの前に集まるヒドリガモ

 川越の伊佐沼に、渡りを前にしたヒドリガモの群れがきています。ヒドリガモ特有の「ヒュー」という鳴き声がときおりあちこちから上がります。春を節目に新しい土地に渡る意気込みを表す歓声でしょうか。