宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
「譲カード」に反対します
先日、埼玉県障害者施策推進協議会が開催され、その中で障害のある委員から「譲カード」に反対する意見表明がありました。
「譲(ゆずる)カード」とは、「新型コロナウイルス感染症で人工呼吸器や人工肺などの高度治療を受けている時に機器が不足した場合には、私は若い人に高度医療を譲ります」という意志を予め明らかにしておくためのカードです。
「日本原始力発電所協会」のホームページに、循環器専門医の石蔵文信さんがこのカードの解説をしています。それは次のようです。
「新型コロナウィルスの感染が蔓延し、医療崩壊が心配されています。 集中治療室が機能不全になり、人工呼吸器が不足すると命の選択が迫られるかもしれません。 実際にイタリアでは回復見込みの少ない高齢者の人工呼吸器を取り外して若い人に使用すると言う『命の選択』が始まっています。 ただでさえ忙しい医療関係者に『命の選択』まで迫るのは酷な話です。では医療関係者がそのような苦渋の判断をする苦労を少なくするにはどうすれば良いでしょうか?
それは我々高齢者が『高度医療を万が一の時に若者に譲ると言う意思』を示せば良いのではないでしょうか?」
要するに、忙しい医療関係者が「命の選択」まで迫られるのは酷だから、高齢者にあらかじめ「命の選択」をしておくことを勧めるという趣旨です。
医師が「生命の優先順位を決めることは責任を問われるので、後回しにしてもらっていいという高齢者は自ら名乗り出ておいて欲しい」ということでしょう。医師が優生思想に抵触することなく個別の医療行為を「安心して」行うことのできるよう、高齢患者の側に優先順位を落としておく条件づくりをさせておこうとするものです。
みんなに「生きる権利」のあることを明確に否定していますから、高齢者だけでなく、障害のある人が反対の声を上げることは当たり前です。
このカードは、自由意思に基づくもので、決してカードへの署名を薦めている訳でもないと説明しているようです。これは詭弁の典型です。自由意思にもとづいて「譲カード」に署名していた高齢者は「医療現場の窮状を配慮できる良識のある人」で、署名していな人はそこまで考えていない人という扱いにならない保証がどこにあるのでしょうか。
要するに、このカードの存在と普及が多くの高齢者や障害者への差別に通じる道を開く役割を果たすことが客観的な問題として浮上するのです。
さらに、石蔵さんは、「臓器移植法が成立するまでには、やはり今回のように『命の選択』と言う倫理的な問題が立ちはだかりました。 現場でがんばっている若い先生方に同じような苦労はかけたくないと思い、今回は高度な医療機器が逼迫したときにその機会を譲ってもいいよって言う意思を伝えるために『譲カード』を作成しました。」と言います。
臓器移植をしてもらうことのできる「順番」に伴う「命の選択」の問題と、感染症の蔓延に伴う人工呼吸器の不足に伴う「命の選択」が同質の問題であるかのように論じている点は、決して看過することはできません。
移植に必要な臓器の確保の問題と、高度医療に必要なエクモ(ECMO)の不足をどうして同列に扱うのでしょうか。臓器は人体から取り出すしかありませんが、エクモは、予算と時間さえあれば製造して、モノの不足を補う政策的な努力をすることが十分に可能です。
感染爆発が起きて、万策尽きた場合には「命の選択」の問題に直面するかも知れませんが、そのような問題のステージに突入する前にするべきことが山のようにあります。感染爆発を防止する手立てを尽くしながら、高度医療の必要十分な条件整備を図ることです。このことを優先するのではなく、いきなり「命の選択」の問題を優先するのです。
その他にも、災害時のトリアージの問題を交錯させ「命の優先順位」を議論しようとする向きがあるようです。しかし、災害時のトリアージには、事態の切迫性(差し迫った状況)、非代替性(この他に人命を護り得る手立てがないこと)、一時性(日常的な行為ではなく、この時だけの行為であること)という性格があります。
これは、虐待防止の常識である身体拘束の要件と同じであり、日常的な行為としてあれば明白な人権侵害行為となりますが、3つの要件が揃う止むを得ない事態に限り許されると行為として容認されるものです。
したがって、高度医療が不足している「やむを得ない事態」の客観的な定義を明らかにした上で、その時どのように対応するのかは、老若男女にかかわらず、障害のあるなしにかかわらず、すべての国民の参画による討議によってコンセンサスを作っていく以外に道はないと考えます。
それでも、議論の出発点はあくまでも「すべての人間に平等な生きる権利がある」ことです。この点をないがしろにして、命の優先順位をつけることが医療崩壊を招かいないための高齢者の「良識」であるかのように装うのは、詭弁以外の何物でもありません。
このような議論がまかり通るのであれば、生命の優先順位を規定する要件を際限なく細分化していく議論に行き着きます。つまり、「高齢者を高度医療から排除してもなお人工呼吸器が不足している」事態に発展した場合、次にどのような人に「譲カード」を書いてもらっておくことが「妥当」だというのですか?
「譲カード」は高齢であることを生命の優先順位を下げる根拠としていますが、生命の優先順位を決める源泉が、多様なイデオロギーによって構成されてきた歴史のあることは私たちの忌まわしい記憶として残っています。
ナチスドイツの優生思想では、遺伝的素因や障害のある人の劣位を明確に規定していましたし、アメリカの優先思想では知能と運動能力の高い人間を優先する社会的処遇が強化されました。
このカードのように、ひとたび高齢であることを生命の優先順位を下げる要因として認めてしまうと、優生思想に歯止めがかからなくなります。
私は「譲カード」に反対します。
さて、この秋分の日は、「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がぴったりきました。異常気象の続く今日、季節の移ろいが滞りなく進む安心感には心底ホッとします。近くのお寺の墓地に立ち寄ってみると、ほとんどのお墓に仏花が供えられていました。檀家制度が崩壊しつつある今日、お彼岸にたくさんのお身内の方が墓参りに来たというのも、何だかホッとします。