宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
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- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
このままなら裁判官はAIで十分
先週、身近な人にとんでもない暴力をふるって死に至らしめた刑事事件の判決が相次ぎました。
その一つは、この16日に横浜地裁で開かれた「津久井やまゆり園」の判決公判で、被告に死刑判決を言い渡しました。もう一つは、小学校4年生の女子の虐待死亡事件で、19日に千葉地裁は被告の父親に懲役16年の判決を下しました。
これらの裁判に多くの国民の抱いた期待は、どうしてこのような事件が起きたのかという実態の解明と、このようなことが二度と起きないための教訓を明らかにすることだったように思います。
ところが、これらはいずれも裁判員裁判で「核心司法」です。公判前整理手続によって争点を絞り、その争点についての判断が中心となります。これに対して、裁判官による裁判である「精密司法」は、犯罪の動機、背景、経過、結果、社会的影響等の実態の全容を解明します(https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file2/20902001.pdf)。
たとえば、津久井やまゆり園事件は、植松被告が初公判で起訴事実を認めているため、争点は被告の責任能力の有無に絞られた「核心司法」でした。すると、このような裁判に実態の全容解明や事件防止のための教訓を求めることそのものに、もはや無理があるとなるのです。
ジャーナリストの青沼陽一郎さんは、「『植松被告』に死刑判決でも事件が不可解な理由」を報じています(https://toyokeizai.net/articles/-/338020)。青沼さんは「核心司法」であることを根拠に、この裁判に実態の「解明を求めることからして無理がある。むしろ、期待しても無駄だ」と明言します。
青沼さんの説明をかいつまんで言うと、次のようです。一般市民である裁判員の負担を軽減する見地から、手続きの簡素化と期間の短縮が求められる。そこで、公判前整理手続で論点を絞り、その他のことを細かく知る必要をなくして、事件の核心と裁判の結果を重要視するのが「核心司法」であると。
以前の職業裁判官による精密司法は、確かに恐るべき長い年月をかけることがありました。素人のうがった見方では、裁判所は判決より前に被告や原告が死ぬのを待っているのではないかと思うほど、長期間にわたる裁判です。
裁判官による精密司法をスピーディーに実施できるように改革してもいいと思うのですが、そうすると予算が拡大してしまう。そこで、市民参加型の「裁判員裁判」である「核心司法」にして、大したお金もかけずに「司法制度改革」をしていますという大義名分を立ててお茶を濁す…。
もちろんこれは、私の個人的なうがった見方に過ぎません。私は以前から、日本の裁判所に期待することはできないと考えてきました。「全盲の母は闘う」の堀木文子さんの訴訟に係わる最高裁判決(1982年7月)が下りて以来のことです。
1970年の提訴から12年もの歳月をかけて、国民の生活保障の実現についてほとんど無制約の裁量権を国会に認める判決を出しました。司法が社会保障を点検する道を著しく成約した判決であり、最高裁が「日本国憲法の番人」であることを根底から放棄したものと受けとめました。
この判決を導く法理が何ものであるのかを論じる前に、裁判に12年間もの歳月をかけているだけで原告の堀木さんに対する重大な人権侵害だと考えるのが普通の良識ではないのか。身分も官舎も保障されている裁判官には、このような市民の良識さえ期待できないという不信感を抱き続けてきました。
堀木訴訟の最高裁判決が出た直後の記者会見で、サングラスをかけた堀木文子さんが「二度と裁判所には来たくない」と吐き捨てるように言った場面は、私の脳裏に焼き付いています。
このようなかつての裁判所のネガに、先週の二つの判決は、核心司法の導入後の新しい不信感を重ねて焼き付けます。この不信は、同種の事件を防止するために必要な事実と教訓を明らかにする必要性について、今日の裁判所は考慮する機能を持たない点にあります。
とくに、やまゆり園の事件については、何か別の「裏事情」があるのではという疑いを含めて、実態が何も明らかにされていない問題のあることを以前のブログで指摘しました。日本障害者協議会の藤井克徳さんも「浅い裁判だ」と失望感を表明しています(3月17日朝日新聞朝刊報道による)。
それでは、どうしてこのような事件が起きたのか、このような事件を繰り返さないために必要な具体的教訓は何かを明らかにして欲しいと願う国民の期待を素通りするだけの裁判のままでいいのでしょうか。
やまゆり園の事件の裁判についての私の率直な感想は、公判前整理手続を済ませた後は、人間の裁判官は不要です。これまでの判例にもとづいて、被告の責任能力の有無と量刑の判断をするだけですから、AIで十分です。
高度な手術や専門医療における診断さえAIで可能になっている時代です。津久井やまゆり園事件に「浅い内容の判決」を言い渡す程度の実務であれば、むしろ、AIの方が下手な忖度や間違いがなくていいのではありませんか。
人間の裁判官の雇用をこれまで通り続けるのであれば、主権の存する国民に対して、それ相当の仕事をしてもらわないと困ります。そのためには、効率重視の核心裁判によって切り捨てられた問題を補足するためのシステムがいるでしょう。
まず、核心裁判で明らかになっていない事実と、虐待や障害のある人に対する暴力・差別の防止に資する教訓を明らかにし、犯罪者と犯罪被害者の更生と自立支援を実施できる機構を設置することです。
次に、裁判所は判決で有罪無罪と量刑を言い渡すだけでなく、この機構に対して、裁判では明らかにできていない問題の解明と自立支援の実施を命じる。
二つの判決は、山のような宿題を残しました。このような暴力と虐待を二度と引き起こさないために何が具体的な教訓なのか、どのような制度改善や支援者の専門性向上の課題があるのかは、何も明らかにされていません。
これらを解明する社会的責任の一翼を担わないまま、「私たちの社会が問われている」(社会面「視点」)とか、「いまを生きる一人ひとりの手の内にある」(社説)とやまゆり園事件の判決報道について締めくくる(いずれも3月17日朝日新聞朝刊)のは、無内容なマスコミの無責任です。
さて、新型コロナウイルスの感染者がまだ報告されていない山形にちょっと足を延ばしました。密集・密接・密閉となりがちな電車・バスを避けたい気持ちが強く、車での移動です。源泉掛け流しの温泉は、貸し切り状態でした。