宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
巧言令色
新型コロナウイルスをめぐり、私には憤懣やるかたない思いが募っています。
新型コロナウイルスの陽性が確認された国内患者の一例目は、1月16日に厚労省が発表しました(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_00086.html)。
それから1カ月余りの間、マスクと消毒用アルコールの市中での払底はずっと続いています。その上、感染の広がりは、イベントの中止、時差出勤やテレワークの勧奨など、あらゆる社会活動への影響をもたらすようになりました。関係者は懸命の努力を重ねていますから、ここまではやむを得ないものと受けとめています。
先日、福岡市に行きましたが、中国からの観光客はほとんどお見受けしません。例年なら大勢の観光客が訪れる別府の温泉も、閑散としていて露天風呂は貸し切り状態です。
しかし、どうも気持ちが晴れないのです。毎日、膨大なマスコミ報道に接しながら、真実には遠くたどり着けない苛立ち。マスコミに登場する「感染症専門家」の奇妙にも落ち着いた解説への不信。
このもやもやとした不可解さと苛立ちの錯綜した気持ちは、福島第一原発の重大事故以来のものです。原発で重大事故のあった当時、「原子力工学」と「放射線医学」の「専門家」の姿勢と発言には、激しい怒りを憶えました。
当時、「専門家」の多くは事態の真実と的確な処方箋を提示するのではなく、「客観的な可能性だけを伝えると社会に混乱が生じるから」という大衆蔑視の文脈で曖昧な発言をし続ける。これらの「専門家」は、「飼い主」のパトロンや権力にだけ尻尾を振る犬のように見えました。
先日、新型コロナウイルスの問題で大きな議論を巻き起こした画像がありました。クルーズ船の中の実態は、安全区域と危険区域を明確に分けた管理をしていない「悲惨な状態」にあることを告発した研究者による画像です。
この研究者について、中国メディアは「日本の李文亮(武漢で最初に新型ウィルスを告発した医師)」だと報じています。クルーズ船内の告発画像は、何が真実であるのかが必ずしも明らかにされてこなかったことと、大勢の専門家が当てにならないことを民衆に知らしめました。
今回登場する多くの「専門家」は、まず、これまでにない「初めてのウイルスによる事態」のために、「正確な情報」は乏しいと「保険をかける」ように前置きをする。最後には、「いたずらに心配する必要はなく、手洗い・うがいを徹底して、マスクをきちんとすれば大丈夫です」とまとめます。
これが果たして「専門家」の発言と言えるのか、と私は絶句します。小学校の先生が、毎年インフルエンザの流行に向かう時期に、生徒を前にして話す恒例の台詞と何も変わりはありません。
感染症の予防対策の基本は同じだというような理屈は成立しません。初お目見えのウイルスが国内で死者まで出すようになった民衆(素人)の不安は、「これまでにない初の不安」が生じている事態です。
すると、これまでにない事態の社会的性格にふさわしい新しい問いを立て、これまでの経験値に収まり切れない新たな処方箋を提示するところに「感染症の専門家」としての存在理由があるはずです。
武漢で新型ウイルスの感染が「公式に」確認されたのは1月5日です。武漢市当局は初期段階で新型ウイルスの発生と流行をひた隠しにしていた事実も明らかになっていますから、もっと以前から現地でウイルス感染が広まっていたことは間違いありません。
そして、1月下旬までは中国と日本の往来は自由でした。この時期に中国と往来のあった人(観光・ビジネス等の中国人・日本人)とそれらに接触した人(土産物店や交通機関の従事者、家族)の合計は膨大な人数になるでしょう。
つまり、クルーズ船と湖北省からの帰国者に絞り込んだ対応には、疑問をどうしてもぬぐえないのです。HIV感染の問題が発生した初期段階に、患者を特定の性愛傾向にある人の問題に矮小化してすり替えた経緯と通底する問題を感じてしまいます。
だから、現時点になって「感染経路をトレースできない患者」が出てきたと言い始めるのは、素人から見ても、「今さら何を言っているのだろう」と不信感が湧いてくるのです。
「専門家」の本心は、素人にできる自己努力は「手洗い、うがい、マスク着用」程度に限られるのだから、感染拡大がはじまったあとは「重症患者への手当てこそが大事」だとして「感染の広まり自体についてはあきらめなさい」とでも言いたいのでしょうか。
これでは、福島第一原発の重大事故の当時に、「笑っていれば放射線は怖くない」と言い放った「専門家」と同じではないのか? エビデンスのまったくない見解を「専門家」の看板を背負って発言する。
これと同様に、新型のウイルスに対して「いたずらに心配する必要はなく、手洗い・うがいを徹底して、マスクをきちんとすれば大丈夫」というエビデンスは現時点で明確にあるのですか?
マスクが入手できない現実に対しては、「しっかり食べて栄養を取って、体を適度に動かして免疫力を高めるだけでも効果があります」と発言した「専門家」がいます。この感染防止「効果」を根拠づけるデータは明確なのですか?
エビデンスがないのに結論めいたことを明らかにする行為は、「研究不正」に当たることくらいは「専門家」ですから分かっているはずです。でも、論文じゃなくて素人相手のマスコミでの発言であれば、大丈夫だと考えているのでしょうか?
それでも、政府の政策決定にこれらの「専門家」が重要な役割を果たしている(はずの)こともあれば、マスコミが「専門家」として引っ張り出して「消費する」ことも相変わらずです。
感染症の素人にとっては、まったく不可解で腹立たしい。福島第一原発の重大事故に係わる「専門家」と「報道のあり方」についての教訓は山のようにありながら、どうして、このような「専門家」と報道の、無責任な傾向的態度が蔓延するのでしょうか。
冒頭に掲げた「巧言令色」(こうげんれいしょく)とは、「人の顔色を見て巧みに言いつくろい、人の機嫌をとるような人には、誠意や真心が乏しい」(真藤建志郎著『「四字熟語」博覧辞典』231頁、1986年)の意です。
さて、貸し切り状態の露天風呂は心底ホッとします。エメラルドブルーに輝くお湯に、大分名物のとり天と団子汁(だごじる)がついてくると、この間の苛立ちからしばらく解放されます。