宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
-
大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
重大な人権侵害事案に係る時効を撤廃するべき
ハンセン病患者のご家族が被った著しい差別と偏見に対する国の賠償責任が確定しました。国が控訴を断念したことは本当に良かったと思います。
ただ、政府声明は、熊本地裁の判決について。次の3つの問題点を指摘しました。(1)らい予防法廃止後の国の責任を認めたこと、(2)国会議員の立法不作為に関する最高裁判例に違反すること、(3)消滅時効に関する最高裁判例に違反すること。
この中で、とくに(3)の損害賠償請求権が不法行為を知ってから3年で消滅するという、時効の起算点が争点となっていた点は、見過ごすことができません。重大な人権侵害を被った個人と家族が声を上げ、国を相手に提訴することの大変さを考慮すると、3年という時効はあまりにも不合理であると思います。
消滅時効にかかわる政府声明に対しては、ハンセン病家族弁護団は次のような声明を出しています(一部抜粋)。
「本判決は、消滅時効の起算点に関する最高裁判例に従い、行政機関の長や国会議員の不法行為について損害賠償請求を行なうという本件訴訟の特殊性を踏まえ、損害および加害行為を認識することが著しく困難であったと判断したうえで、原告らが訴訟を提起しうる状態になったのは平成27年9月9日の鳥取訴訟判決以降に弁護士から指摘があった後であったと判断したものであり、最高裁判例に違反しない正当な判断である。政府声明は、本判決の論旨を曲解するものであると言わざるを得ない。そもそも、本判決の指摘するハンセン病患者家族が差別・偏見を受けるような一種の社会構造の存在を前提とすれば、いかなる理由によっても消滅時効は成立し得ないはずであって、本判決の消滅時効に関する判断はむしろ当然の帰結である。」
時効の起算点を法律上どのように考えればいいのかについては、私にはよく分かりません。しかし、弁護団声明文の最後の4行にある指摘はとても重要です。差別・偏見は、社会が構造的に産出する問題であり、どのような理由によっても消滅時効は成立しないと指摘しています。
2010年4月には、殺人罪の時効が廃止されました。ハンセン病のご家族が被った「筆舌に尽くしがたい」差別と偏見は、「魂に対する殺人」とでも言うべきものではないのでしょうか。
DVや虐待の事案から考えるとよく分かります。抑圧と暴力を被っている側が「自分に落ち度がある」と思い込むことは珍しくなく、自分がひどい目にあっている構造と自己の正当性を認識するためには、第三者の介入と支援が必要です。だから、DV防止法や虐待防止法が必要なのです。
したがって、「鳥取訴訟判決以降に弁護士から指摘があった後」(先に引用した弁護団声明文の中ほど)に訴訟を提起することになったというのは、「筆舌に尽くしがたい」差別と抑圧を被ったご家族にとってはやむを得ない運びだったと考えます。
弁護士の助言がなければ、自分たちの苦しみが差別に由来するものであることを確信するまでには至らなかったでしょう。
この点は、旧優生保護法による強制不妊手術にかかわって国に損害賠償を求めた裁判についても同様ではないでしょうか。
5月28日の仙台地裁判決は、強制不妊手術を定めた旧優生保護法が違憲だと認めながら、救済措置を取らなかった立法不作為については責任を認めず、民法の定める除斥期間の適用で手術から20年以上が経過しているから賠償請求できないとしました。
旧優生保護法の強制不妊手術は、本人に知らされないまま、場合によっては、本人を騙してでも強制的に手術してきた事実があります(3月18日ブログ参照)。このような国家権力による重大な人権侵害の経緯があって、障害のある人が事態の客観的な理解と自己の正当性を確信して訴訟を提起する困難と苦労に対して、「除斥期間の適用」をすることがはたして法理にもとづく正義なのでしょうか。
もし、現在の法制度上、このような時効や除斥期間が問題になるのであれば、重大な人権侵害事案については、いかなる理由によっても時効や除斥は成立しないという法律を定めるべきです。そうでなければ、社会が構造的に産出する差別・偏見を克服していく道筋は見えてこないからです。時間さえ経てば「差別した者勝ち」という事態を放置することに、いかなる合理性もありません。
さて、街角で懐かしくも慎ましい看板を見かけました。この慎ましさの感じは何に由来するのだろうと考えてしまいます。きっと、インターネットで見たくもない宣伝が、勝手に飛び出してくることに辟易しているからでしょう。