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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

連携による支援は進んできたのか(2)

 障害のある子ども・保護者との連携による支援が成立するには、一定の条件があります。

 まず、親と子の出会い。出産を経れば、望ましい親子関係がおのずと形成されるのではありません(ジョルジュ・スニデルス『わが子を愛することはたやすいことではない』、法政大学出版局、1985年)。

 現代は、親自身の生い立ちの中に、乳幼児とのコンタクトを持つ体験がほとんどなくなった時代です。多くの親は、赤ちゃんという存在を目前にして向き合うことが初体験です。そこで、親が慈しみ合いにつながるわが子との向き合い方に支援の必要なケースは決して珍しくありません。

 次に、発達障害のある子どもの場合は、子どもの障害特性についての親の早期理解を形成することが、子ども期全体の支援を展望する上でとても重要です。

 発達障害のある子どもそれぞれの特性を見極めるには、「ふつう」の子どもの育ちや自分の経験値を脇に置いて、親にもそれ相応の科学的理解が求められます。発達障害の特性には、障害のない人の感覚や考えの運びの延長線上では理解できないことが多い上に、子どもそれぞれの違いもあるからです。

 たとえば、親が子どもに下着を着衣させたとします。ここで、子どもはすぐに下着を脱ぎ捨ててしまうことがしばしば起きます。すると、「この子は何てわがままなの」と親は「ふつうに」考えがちです。衣服の着脱の「自立」に一所懸命に取り組む親ほど頭を抱え、自分を責めてしまうこともあります。

 ある子どもを例示すると、綿100%の下着であれば脱ぎませんが、化繊100%または綿・化繊混合の製品は、必ず脱ぎ捨ててしまいます。これは、決して「子どものわがまま」や親の問題ではなく、発達障害による皮膚感覚の過敏さに由来することなのです。

 食べ物の「好き嫌い」が激しい場合、食材・食感・味付け等に対する過敏さによるものが最も多いと言われていますが、中には、特定の形を受け入れない感覚から生じる「好き嫌い」があります。

 ある子どもの例では、丸い形の食べ物を受けつけないのです。茹で卵や目玉焼きの黄身は真ん丸だから絶対に食べない。ミニトマト、ニンジンや里芋の輪切りなどもダメ。エノキなら細長いから大丈夫だろうと思うと、傘の部分が小さい丸だからダメ。

 特定の形に対する過敏さから生じる「好き嫌い」については、親御さんが少しでも「食べやすく」「口に合うように」調理や味付けに工夫を重ねても、徒労に終わります。少しでも食べさせようとして無理強いを繰り返すようになると、親子の親密さが形成されないどころか、親子関係のギャップを拡大していくのです。

 そして、障害特性に関する早期理解が形成されないまま、親子の悪循環が高じてしまいます。この延長線上で、親の子どもに対する不適切な養育が、虐待に転じてしまう成り行きは容易に想像できるでしょう。

 このようにみてくると、親の障害特性に関する早期理解を培うことへの支援が十分でなければ、子どもの必要に応じた多様な地域連携を作ることができないままライフステージが進行し、社会への参入にまで行ってしまうのです。

 就学前段階では、親の困り感を傾聴し、親の苦労に寄り添うことが中心的な支援だと誤解している支援者がいます。このような支援の間違いは、障害のある子どもの養育に親御さんが困っていることに焦点化することです。

 最も困っているのは子どもです。発達障害のある子どもがどのように困っているのかについての早期理解を親に培うことにこそ、専門的な支援の核心があります。もちろん、この支援目標に即して、親の困り感を受けとめることは大切です。

 最悪の「支援」は、発達障害に由来する困難を、支援者の個人的経験値から「この子のわがまま」と捉えて、母親の「困り感」に共鳴してしまうことです。このような素人同様の「支援者」が、残念ながら、今でもそこかしこに存在します。

 たとえば、食べ物の「好き嫌い」の原因を明らかにすることもしないまま、「お母さん、このような子には根気強く食べさせるように心がけましょうね」などと、とんでもないことを言う。この発言は、施設等従事者による心理的虐待に該当する疑いがあります。

 発達障害に係る専門性の乏しい保育所や通常学校が適切な支援をしていないために子どもがパニックを起こし、他の子どもたちと一緒に取り組むことができなくなってしまうことはよく見受けられます。

 ここで、日常の保育や授業がうまく運ばない原因は「パニックを起こす障害のある子ども」にあるとして、支援者の専門性の無さを棚に上げてしまうことが実に多い。支援者の乏しい専門性を棚に上げたままの「タイムアウトによるクールダウン」も同じ構造です。

 そして、保育所から療育施設へ、通常学校から特別支援学校へと、子どもの通い先を変えた方がいいという保護者への「倒錯した働きかけ」がはじまります。専門性の無い支援者自身が、特別の支援に関する研鑽を積むべきなのです。このような状況を放置したまま、子どものための連携と協働を構築することはとても展望できません。

 虐待によって児童相談所の一時保護所に保護される子どもたちは、発達障害のある子どもが著しく多い。学校を卒業して成年の地域支援サービスを利用する発達障害のある人は、急速に強度行動障害が拡大し、支援現場での虐待につながっていきます。

 あらゆる地域の支援現場が発達障害に関わる支援の専門性を、それぞれの障害特性とライフステージにふさわしい内容と水準にまで高めなければなりません。

 さらにもう一つ、大きな問題があります。親子の出会いを含め、「他ならぬあなたと私」という親密圏が現代の家族内部に形成されているのかどうかについてです。

 子どもが保育所・学校にいる時間帯は保育士と学校の先生にお任せする、学童保育や放課後デイではそれらの指導員にお任せし、夜間に子どもの世話をするのは母親の責任で、外で働いて稼いでくるのは父親の責任として…。

 このような日常生活世界には「役割分担」だけがあって、連携と協働はありません。特に、働く母親は自分の仕事と家族ための家事・育児のほとんどをこなさなければならず、子どもに責任を持つ母親には、連携と協働をつくるためのゆとりはまことに乏しい。

 性別役割分業の下で母親に課せられた育児について、必要十分な支援の社会的な保障は貧しいのです。親族や祖母等の理解と支援に恵まれる母親は別として、孤立した育児を営む母親が子どもと出会い、障害特性の早期理解を培って、様々な地域支援との連携・協働を作っていくために十分な労力と時間を割くことはとても難しい。

 さらに、両親ときょうだいのいる家族の中で育ってきたとしても、親密圏にふさわしい家族同士のコンタクトをくぐった経験が乏しい。簡単に言えば、親密さの機能を持たない家族が珍しくないということです。

 ときには葛藤や軋轢をくぐりながら、本当の親密圏が形成されることを体験的に学習していない。すると、男女は個人的性愛の関係までは行っても、親密圏の基礎ユニットとしての夫婦にはなりきれない。結婚後は、顔を合わすことのできる限られた時間帯だけの関係となり、出産を機に性別役割分業に入り、夫婦の協働には至らないのです。

 夫婦の協働が乏しく、働く母親が子どもに十分に目をかけることができないまま、学校や放課後デイの時間帯は、小間切れにお任せする「役割分担」に落ち着く。

 このような「役割分担」には、葛藤や軋轢を含む人間関係の面倒くささはありません。葛藤や軋轢をくぐってこそ育まれる親密な間柄を作ろうとはしない。時間貧乏の保護者と支援者にとっては、このような事態はむしろ魅力的に映るかも知れないでしょう。

 こうして、親密圏としての家族の機能不全と地域連携の困難が悪循環に陥っていくのではないでしょうか。この課題への戦略的なアプローチがなければ、連携は常に「役割分担」に終始するでしょう。

甘党のメジロ

 さて、梅の花芽が膨らんだところに甘党のメジロがやってきて、盛んにリンゴをつついていました。