宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
父の生きた大阪
昨年末、私の父が逝去しました。享年97歳の大往生でした。
死ぬ間際まで、入れ歯一つなく食欲もあり、最期は安らかに息を引き取とりました。身内にとっては、悲しみにもまして、「誰もが見習いたい」と受けとめるような最期でした。
父の最期のため、年の瀬に大阪へ帰省しました。父との思い出を振り返り、町を歩きながら、父の生きた時代の大阪についてのさまざまな想いが巡りました。現在の大阪は、私の父が生きてきたかつての大阪から大きく変貌しています。
父の生きた大阪は、田辺聖子さんの小説『道頓堀の雨に別れて以来なり-川柳作家・岸本水府とその時代』(中央公論社、1998年)に描かれる大阪とだぶります。川柳作家で、コピーライターでもあった岸本水府(1892-1965)の生きた時代です。
水府には、清濁併せ呑む大阪の町に根を張り、実業と文学を通した文化の創造者としての誇りがあったように思います。それは、同時代の大阪の人たちが共有していた民衆的自尊心ではなかったでしょうか。
近世の大阪商人の旦那衆は浄瑠璃や小唄・長唄を習い、あるいは俳句や井原西鶴の浮世草子をたしなんだといいます。井原西鶴の『好色一代男』が出版された当時の書物の値段は、現在の値段に換算すると1冊10万円以上したといいます。町の民衆は現在のように娯楽芸事の単なる消費者にとどまらず、商いと暮らしの営みの中で文化を創造していました。
明治以降の近代化が進む中で、繊維中心の軽工業から重化学工業に進む阪神工業地帯の発展があり、大企業の本社の並ぶ御堂筋から北浜の大阪証券取引所に至るビジネス街が整備され、第二次世界大戦中の大空襲による焼土からの復興がありました。
国家による富国強兵策があったとはいえ、大阪の豊かさを脈々と作り続ける力の源泉は民衆の生きる力にありました。NHKの朝ドラ「まんぷく」は、この辺りの様子をいきいき描いていると感じます。
救護法の時代に活躍した大阪の方面委員の中心には、大阪商人たちがいました。これらの取り組みの中で、時代の制約はもちろんありますが、シーボーム・ラウントリーの第一次貧困線と第二次貧困線にもとづいた貧困予防の活動まで追求されていたところに、民衆的自立心の誇りがあったと私は見ています。
私の就学前の記憶をたどってみます。私は天神祭りで有名な大阪天満宮の傍に住んでいました。現在、上方落語の定席である天満天神繁盛亭のある地域です。この辺には、たこ焼き屋が2軒、天神橋商店街に南森町公設市場があって、庶民の賑いに溢れていた記憶があります。
高度経済成長期に入った1960年代の前半、職場には現在のような残業はなく、「働き方改革」が問題になるような時代ではありません。夕方を過ぎれば、どの家の父親も自宅に戻り、真夏には玄関先に長椅子を出して、近所の人たちと夕涼みがてらにビールを酌み交わしていました。
子どもの面倒を普段から近所で支え合う営みも普通に残っていましたから、親の都合から近所の家で過ごすひと時は、当時の大阪の子どもたちに共通する記憶だと思います。
私の子ども時代の記憶に残る大阪は、民衆の暮らしにそこはことない活力がみなぎっていました。町の活力の源は、大阪が大店や大企業の本拠地であるからというだけではなく、庶民の生活と労働そのものにあったことを実感することができました。
1970年の万博以降に大阪から大企業の本社と一流料亭が東京に移り出て、大阪が「東京に次ぐ第二の都市」と言い出した頃には、長らく繁栄した「天下の台所」からの、構造的な変化を余儀なくされていました。今や、株の現物を売買する大阪証券取引所もなくなっています。
「東京と並ぶ」「東京に次ぐ」「東京と同じような繁栄」「東京で売れてこそお笑い芸人」「東京都と同様の行政機構」というフレーズや発想が大阪に出てくるだけで、もはや「田舎もん」になった証拠です。
大阪本来の食文化の変化も実に大きい。大阪の中心的な繁華街であるキタ(大阪梅田周辺)とミナミ(道頓堀周辺)は、今のように「串カツ」がはびこっている地域ではありません。「大阪といえば串カツ」というイメージが外に広まってしまっているのも、私には理解不能です。
大阪の混布出汁ベースの薄味文化は、弘化元年(1844年)創業の「たこ梅」のおでん等に受け継がれてはいるものの、街の食文化全般からは消失したように思います。全国展開する味の濃い外食チェーン店とジャンクフードは市中に増え、大阪うどんの普通に美味しい店はめっきり少なくなりました。
社会人となって大阪を離れて働く私の甥っ子たちは、「東京でチェーン展開する店の『タコ焼きの唐揚げ』のようなものがタコ焼きを名乗るのは許しがたい。あんな油まみれはタコ焼きとはちゃうやろ」と抗議します。私も全く同感です。しかし、本来のたこ焼きのあり様とは全く異なる「たこ焼きもどき」は、一私企業によって強引にも「たこ焼き」と称されてしまうのです。
その上、インバウンド需要を当て込んだ「観光文化ビジネス」が、大阪という町本来の歴史や文化をどんどん歪めてしまっていく弊害を積み重ねているような気がします。
このように私の父が生涯のほとんどを過ごした誇りある大阪は、大きな変貌を遂げました。自立心溢れる大阪は、東京一極集中の下で地方中核都市の一つとなり、グローバリズムの進展とともに内発的な自立性を保てなくなっていきました。
1970年の万博は大阪の証そのものでしたが、これからの目論見である大阪の万博は公共事業とインバウンド需要を当て込んだ景気浮揚策に過ぎません。
しかし、このような変貌は、大阪の凋落というより、日本そのものの凋落です。大阪が自らの誇りを喪失していく時代は、タイムラグを置いて日本全体が誇りを喪失していった時代です。
1964年の東京オリンピックが戦後復興を果たした日本の証であったのに対し、2020年の東京オリンピック・パラリンピックは公共事業とインバウンド需要を当て込んだ「幻の景気対策」に終始するかも知れません。
あらゆる地域の人たちが暮らすことと働くことにアイデンティティと誇りを持てることを基盤にして、社会保障・社会福祉は成立する可能性を懐胎します。民衆が文化的アイデンティティと誇りを見失った状況には、煽情的なポピュリズムによる政治家とナショナリズムが跋扈するリスクが出来するでしょう。
父の生きた時代の大阪にあった民衆の誇りを、私は持ち続けたいと思います。
さて、大阪と言えば「粉もん文化」。お好み焼きの仕上げの段階で油を垂らして焼きながら表面をカリカリにするような、ニセモノのお好み焼きの店や企業が出てきたら、生粋の大阪人たちよ、お好み焼き文化を守り発展させるための「お好み焼き平八郎の乱」に決起しよう!