宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
-
大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
母体保護法と出生前診断
出生前診断と障害のある子どもの出産・中絶をめぐるルポルタージュ『選べなかった命-出生前診断の誤診で生まれた子』(河合香織著、2018年7月、文藝春秋)を読みました。
同様のルポには、斎藤茂男さんの『生命かがやく日のために』(1985年9月、共同通信社)がつとに有名です。大勢の障害のある子どもが中絶されたり、出産直後に治療放棄で殺されていく様を明らかにする一方で、障害のある子どもと向き合って育てていく親の姿をルポしたものです。
しかし、斎藤さんのルポルタージュが出版された当時と現在では、出生前診断の技術や出産・中絶をめぐる親の選択権のあり方が大きく異なります。
現在では、母体血胎児染色体検査(NIPT)の認可施設が増加し、出生前診断においてダウン症等の可能性が高いと判断されたケースの9割以上が中絶を選択している現実が明らかにされています。
『選べなかった命』は、高齢出産に臨む看護師でもあった女性が、函館の産婦人科で羊水検査を受け、検査結果は「異状なし」と医師から伝えられていたにもかかわらず、ダウン症の子どもが生まれたことをめぐる裁判を軸にルポが構成されています。
生まれたダウン症の子は、複数の合併症に苦しみながら3か月余りで亡くなります。羊水検査を受ける際の産婦人科で受けた説明は、検査結果によっては「中絶の選択肢」があり、「中絶ができるのは妊娠22週までですので、それを見据えた上で妊娠16週か17週までに予約の電話を入れてください」という内容でした(同書23頁)。
医師は、検査結果をよく読まずに「異状なし」と伝えてしまったのです。杜撰であるとの誹りは免れません。生まれてきた子どもがダウン症であったことは、母親にとっては全く予期しない出来事となり、しかも、その子がさまざまな合併症に苦しみながら死んでいく様を前にすることになるのです。
それでも、母親は必死にこの子の短い生をいとおしく受け止めようと懸命になります。だからこそ、医師の杜撰な「誤診」と医師会の保険金支払いだけでことを済ませようとする不誠実な態度に対して、裁判によって責任を明らかにしようとしました。
この母親は、もし出生前診断によって何らかの障害のある可能性が高いという結果が出ていれば、必ず中絶すると考えたのではありません。「中絶をする可能性はあった」と認めつつも、誤診だった上に、出産した子どもが苦しみながら死んでいく様を眼前にする悲壮な体験に対して、出生前診断に関する医師の軽率な態度と無責任さを問いただそうとした裁判でした。
本書は、出生前診断と中絶の問題を旧優生保護法による強制不妊の問題との関連で追求し、出生前診断から中絶の行為に関与する医療者の苦悩とストレス、ダウン症を育てて幸せを実感している里親や母親の声もルポしています。
そうして、「9割が中絶」という強烈な数字は、本当の意味での親の「選択」ではなく、「障害があれば中絶せざるを得ない」ところに追いやられてしまっている実態があるのではないかと問うのです。
羊水検査の結果で異常が分かったにも拘らず、ダウン症の子を出産し、育ててきた母親の肉声が次のように出てきます。
発達は独特で、育児書は一切役に立たなかった事実に対しては、
「だから誰とも比べないで済んで、何歳までに何ができなければいけないとかまったく関係なくて、かえって楽だったかもしれません。毎日、公園遊びやボール遊びを一緒にして、そこにいてくれるだけで笑いが溢れて楽しい。人とは違っても、日々の成長を喜ぶことができます」(同書213頁)
障害をめぐる「ネガティヴな面、不利な面ばかりが」伝えられることに対しては、
「けれども、ダウン症を育てているお母さんはどんな子育てをしているか、普通のダウン症の子がどんな風に育っていくかの情報はほとんど与えられません。書道や様々な分野に才能があって活躍しているダウン症の人の話は伝えられる。しかし、そういう特別な人ではなくて、普通のダウン症の子がどんな風に生活しているか知る機会がないと、平等な選択とは言えないのではないでしょうか」(同214頁)
障害者権利条約の締約国となった現在に、医療技術の進歩に伴って障害のある子どもの出産・中絶をめぐる親の「選択」の問題が問われているのです。現在の出生前診断は、一部の染色体異常しか明らかにできませんが、すでに全ゲノム解析の技術も確立していますから、障害のある子どもの「生」をめぐる問題は、今後ますます先鋭化するでしょう。
この問題は、これからの特別支援教育や福祉支援に係わっても、当事者と家族の日常生活世界の変容として問われることになる課題でしょう。とりわけ、社会的な支援サービスに係わる「選択の自由」は幻想であり、「選択を強いるシステム」を支援者が当事者と共に問い続ける課題は重要性を増します。
国家が国民の幸福の実現を目標として、何が「正常」あり、何が「健全」であるのかを社会的な政策の土台に据えるようになった時点から、優生思想が広がりを見せるようになりました。劣弱な遺伝子や異常な種を絶滅させることによって、正常で健全であることの「幸福」が実現するという考え方です。
ユダヤ人や精神障害者・知的障害者を絶滅させようとしたヒトラーはその典型ですが、母体保護を国家の政策として始めたのもヒトラーであることはあまり知られていません。
しかも、現代における「介護予防」や「生活習慣病対策」の中にもこのような考え方が密かに埋められているのではないでしょうか。財政再建を錦の御旗に掲げながら、正常さや健全さに重点を置く国民福祉のための政策の下では、「要介護状態」は減らすべきである状態とされ、「障害」に係るネガティヴなイメージが強化されていくのです。まさに、ミシェル・フーコーの指摘する「生-権力」論です(中山元著『フーコー入門』、1996年、ちくま新書)。
『選べなかった命』はとても有意義な内容で、多くの方に一読をおすすめします。ただし、この本の内容は、タイトルにある「選べなかった命」を論じているのではありません。この本の著者にありがちな傾向として、いささか本のタイトルが煽情的なコマーシャリズムに振れ過ぎなのではないかと疑問を感じます。
さて、共生社会の実現という課題は、少なくとも100年単位の国家的営為を展望するべき課題ではないでしょうか。北欧の福祉国家と福祉社会の発展も、少なくとも20世紀初頭からの歴史的な取り組みの積み重ねによるものだからです。
21世紀以降は、人間だけではなく、あらゆる生物を含む自然環境との「共生」が問われざるを得ないでしょう。つまり、〈人間-社会-文化-自然〉というつながり中で、共生の営みが持続していくためには、500年や1000年くらいの時間の流れを考えなくてはならないかもしれません。
奈良公園は、世界で唯一、人間と鹿が1000年にわたって共生してきたところだと言われています。外国からの観光客は、このように鹿と人間が共生する奈良に日本の魅力を感じて訪れるのでしょう。奈良公園に豪華ホテルを建てようと目論む人や、目先の経済状況や投資対象に注意を奪われているエコノミストや投資家には、共生社会を展望する能力と資格はないのでしょう。