宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
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- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
家族ってなんだ
最新刊の『暮らしの手帖』(12-1月号、第91号通巻472号)に掲載されている「家庭教育支援法案から考える-家族ってなんだ」(122-129頁)の記事に注目しました。多様な視点から現代の家族を考える内容で、皆さんにも一読をおすすめしたいと思います。
記事の冒頭は次のようです。
「『昔に比べ、現代の家族は絆が希薄だ』『核家族や離婚した世帯が増え、子どもの教育がおろそかになっている』『最近の親は、なんでも学校任せ。しつけは、家庭でするべきだ』―。
昨今の家族や家庭について聞かれる、こういった嘆き。誰もが一度は、耳にしたことがあるのではないでしょうか。
では、今こうした認識に基づいて、伝統的な日本の家族像を取り戻そうとする動きがあること、具体的には、『家庭教育支援法』という新しい法律が準備されていることは、ご存知でしょうか。」
1980年代中盤、社会福祉の領域では保育や高齢者介護のサービス需要を抑制する目的から、家族の役割と責任を強調するとともに、ボランティア活動を「政策的に奨励」したことがあります。本来は市民の自主的で自発的な活動であるボランティア活動を「国家が政策的に奨励する」という不思議な倒錯のあった時代です。
市民の自主性・自発性にもとづくボランティア活動とあわせて、私的生活領域である家族のあり方についても政府が口を出すのはいかがなものかと当時は疑問を抱きました。
しかし、男女共同参画の時代に入り、待機児童問題は深刻化して保育需要はたとえようもなく増大し、一時は「介護の社会化」を目標に掲げさえした介護保険を導入するという運びになってきたのは皆さんご存知の通りです。
「家族」と「ボランティア活動」の二つは、庶民の暮らしを支えるこれまでの施策が社会的・制度的な行き詰まりに直面したとき、必ずと言っていいほど、ご都合主義的に引っ張り出されてきました。確か、ヤング・ハズバンドも「政策主体にとって、ボランティア活動ほど甘美なご都合主義はない」と『英国ソーシャルワーク史』(上下巻、1986年、誠信書房)の中で述べていたと思います。
『暮らしの手帖』は「家族ってなんだ」を考える4つの視点を提起しています。
視点(1)は「法律で定めるべきことと、法律では定められないこと。あなたは、その区別をどのように考えますか」です。
家族のあり方について、「親学」が「子守歌を歌う」「できるだけ母乳で育てる」「授乳中はテレビをつけない」「親子で感動する機会を大切にしよう。テレビではなく、演劇など生身の芸術を鑑賞」と提言するように、こと細かな家族のあり方を法によって定める方向性の危うさについて、「今一度、考えなくてはなりません」と指摘しています。
視点(2)は、「静かに進む、愛国心教育。2006年に改正された教育基本法との、この法案との関係を知ってください」です。
ここでは、教育社会学者の広田照幸さんの指摘が登場します。「47年教育基本法は、子どもの教育に関して、行政に課す責務を定めていました。しかし、改正法は、行政よりもむしろ、各家庭に向けたような内容になってしまった」、「家族という私的な領域には、行政は立ち入らない。かつてはあったその認識が、06年の教育基本法改正で、崩れてしまったのです」と。
視点(3)は、「家族のきずなが弱体化しているという話は、本当でしょうか。思い込みや原則で判断してはいませんか」です。
広田さんは「かつての日本の子育てはすばらしかったというのは思い込みでしかなく」、「しつけは主に地域の共同体の役割とされていた」のであり、「家庭で行われるしつけがあったとしても、その多くは『鍬を使ったら錆ないように洗っておく』というような、労働にかかわるもの」だった事実を明示します。
むしろ、現代では「子どものしつけにも教育にも、熱心にかかわる親が多く」なったのであり、「昔と違ってなにもかも学校任せにしている、という批判は当たりません」と指摘しています。
視点(4)は「現代の家族の形は多様化し、価値観もそれぞれです。標準の形を定めて、そこに押し込めることはできません」とあります。
「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という性別役割分担の考え方に反対する人の割合は、男女ともに増加傾向にあり、共働き世帯は2015年時点で1100万世帯に達していると指摘します。つまり、一家の大黒柱としての父親と専業主婦の母親がいる家族を「標準の形」にすることのできない家族の多様化の進展とともに、それぞれの家庭に思い思いの望ましい目標や価値観が多彩な広がりを見せるようなりました。
このような個人と家族のあり方の多様性の中にこそ、LGBTや障害のある人を含む多様な人を包摂しうる共生社会の実現が展望できるはずです。しかし、『暮らしの手帖』は「特定のゴールをみんなで目指しましょう、とひとつの価値観を強要している」と懸念しています。
この後、4人の方それぞれの家族観が提示されます。ジェーン・スーさん(コラムニスト、作詞家、ラジオパーソナリティ)の「親子といえど別の人格、そのことを尊重したい」、佐川光晴さん(作家)の「子育てほど大変で、面白いものはない」、山崎ナオコーラさん(作家)の「子どもは社会とじかにつながっている」、そして岸政彦さん(社会学者)の「『標準的な家族』という規範を壊した先に」です。この4人だけで、多彩な家族のあり方の輝きが伝わってくるようです。
最後に、日本在住27年のアメリカ人で詩人のアーサー・ビナードさんが日本の家族をどう見ているのかを語るところで、この記事は終わっています。私の特に目の止まったアーサー・ビナードさんの主張の一部を紹介しておきます。
「そもそも昔は、一人では生きていけないから家族をつくるという側面が強かったはず。独りで衣食住をまかなうのは難しいから協力し合う。家庭内でまかなえない場合には、近隣と物々交換をする。そうして家と家が経済活動を通してつながることで、社会はつくられてきました。“economy” という英語があるでしょう。『経済』と訳されることが多いこの単語が、『家』や『家計』という意味のギリシャ語に由来しているのは、そういうわけなんです。」
「ここで大事なのは、社会というものが、家族を土台として下から積み上げられてできるものだということ。今の日本の家族と社会の関係はどうでしょう? 下から積み上げるというより、上からの支配構造があり、一番下に家族が置かれて無力になっている。僕はそれが心配です。」
高度経済成長からバブル経済が終焉するころまで、わが国の家族は企業社会に従属して生きながらえてきた位置にありました。その後、わが国の企業は社員の家族生活に対する一切の責任を放棄するようになり、企業社会の原理を媒介した民衆支配の時代は終焉を迎えました。家族のあり方をこれまでとは異なる方法で支配する時代に入ろうとしているのかも知れません。
少なくとも虐待防止法の運用は、私的生活領域である「家族」に介入して「家族のあり方」をあるべき価値観から指示しようとするものではなく、個人と家族それぞれの人権擁護と自由な発展を展望しようとするものでなければならないでしょう。
さて、わが家の庭にモズが訪れるようになりました。庭の木に眼をとめてみると、なんとモズのハヤニエがあるではありませんか。これは木の棘にカナヘビを刺したものでしょうか。果たして、このハヤニエはモズが食べるのか?