宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
十年一日
昨日(4月23日)の朝日新聞朝刊は「知的障害者が暮らす場は」と題する記事を掲載しました。
かつてわが国にも大規模コロニーがありましたが、グループホーム等への「地域移行」が徐々に進んできています。しかし、高齢期に入った障害のある人、とりわけ医療的ケアの必要度が高い人たちには、暮らしの場としての施設の必要性が現実的には高いことを指摘しています。
練馬区にNPOが開設したグループホームには、夜勤の看護師が配置されていることによって、障害の重い人たちが暮らしていることも紹介され、最後に、大阪府立大学准教授の三田優子さんが、「障害のある人も地域で当たり前に暮らすのが本来の姿」とコメントしています。
根本的な異論はないにせよ、私はこのようなあまりにも単純で、十年一日のような傾きを持つ議論に、いささかうんざりするのです。暮らしの内実をどうして地域生活に係る議論の出発点に据えないのか、また、施設からグループホームに暮らしの場を変えさえすればどうして「地域移行」と言えるのかがさっぱり理解できないからです。これらは暮らしの形式に過ぎません。
埼玉大学の全学開放科目である「福祉と出会う」という授業科目を私は担当していて、そこに、子ども期にずっと施設で暮らすことを余儀なくされた肢体不自由の女性お二人をゲスト講話にお招きし、かなり以前の施設体験にはなりますが、実体験を話していただくことにしています。
夏だろうが冬だろうが入浴は一週間に一度しかなく、下着を含めて衣服を交換してもらえるのも一週間に一度しかない入浴日に限られます。食事内容は一方的に決められたものが出されます。挙句の果てには、施設職員から「あなたは何にも努力しなくても、一生施設で面倒見てもらえるのだから、気楽でいいわね」としょっちゅう言われたそうです。
もしこれが、今の話だとすれば、重大な人権侵害事案として、障害者差別解消法または障害者虐待防止法による事態の是正が求められることは言うまでもありません。
ところが、このような福祉サービスにつきまとう暮らしの貧しさと人権侵害への傾きは、施設であるかグループホームであるかに直結した問題では全くないのです。平成27年度の障害者虐待対応状況調査の施設従事者等による虐待の実態では、障害者支援施設88件(26.0%)に次いで共同生活援助(グループホーム)63件(18.6%)となっており、通所型のサービスである就労継続支援B型(49件)と同A型(23件)の合計は72件(21.2%)となっています。
グループホームが「在宅生活」に括られる根拠は、法制度上で「社会福祉施設」ではないからだけのことです。「有料老人ホーム」を居所にしている高齢者が、実態は特別養護老人ホームと何も変わらず、地域にまったく出ることはできない生活実態であっても、「在宅生活」に括られてしまう仕組みと同じです。
グループホームで虐待を被った障害のある人が、就労継続支援のサービスの中でも虐待を重ねて被るかもしれません。通常は地域で暮らしを営む要介助の障害のある人が、一時的に入院をしたとき、介護支援を利用することが認められたのもつい最近の出来事です。
つまり、施設だろうが、グループホームという「在宅生活」だろうが、入院中であろうが、通所型のサービスだろうが、障害のある人自身が市民として権利行使することが当たり前のこととして担保される社会的な仕組みの中に、障害のある人の暮らしが組み立てられていないということが問題の本質ではないのでしょうか。
津久井やまゆり園の再建問題では、ようやく意思決定支援がはじめられました(http://www.kanaloco.jp/article/244489)。この取り組みにしても、神奈川県や社会福祉法人かながわ共同会が率先して着手したのではなく、施設再建の方向性を決めた後に批判的な問題指摘を受けてのことでした。
「市民としての権利行使」がないがしろにされる問題は、障害のある人に限られたことではありません。虐待を被った子どもたちの暮らしの場は、里親の重要性が叫ばれ続けてきましたけれども、児童養護施設が今日でも主要なところです。
私の友人である児童養護施設の出身者は、「施設生活に対する差別と偏見がある」とさえ言います。「確かに、施設には不自由なところはあった。俺が施設にいた当時は、晩飯が16時30分でね、寝る時間の空き腹は本当にこたえた。けれども、中学の部活で一緒だった『ふつうの家庭』から通学している友だちが、お母さんが『勉強しろ』ってうるさくて悩んでいる姿を見たら、どっちもどっちだと思ったよ」と。
つまり、どこに住んでいるかの形式的な問題ではなく、「子どもの権利条約」のいう「小さな市民」としての子どもの権利が、暮らしの内実において遵守されていないというわが国の現実こそが問題なのです。
わが国はすでに、数百人を収容するコロニーのあった時代ではありません。障害者権利条約第19条は、原文が“not obliged to live in a particular living arrangement”であり、政府公定訳は下線部を「特定の生活施設」と誤訳していることはあまりにも有名な話です。「特定の生活様式を強制されない」が正しい。
以前のブログで指摘しましたが、権利条約は「施設生活」が人権侵害であるとは一言も言っていないのです。
自宅で家族と暮らしたとしても障害基礎年金を取り上げられて家からも出してもらえないような生活を強いられること、入院の必要がないのに精神科病院での社会的入院を余儀なくされていること、障害のある人の暮らしに不向きな間取り・施設設備・支援者配置であるグループホームの暮らしを「地域生活移行」として強要されることなどの一切を、社会的包摂にふさわしくない権利侵害としているのです。
グループホームは「地域生活」で「在宅生活」などという、あまりにも表面的な議論に還元するのではなく、すべての暮らしの場における市民としての権利擁護が実現するための多面的で今日的な課題が、もっと掘り下げられるべきだと断言します。
さて、樹木の桜の花が終わると、埼玉県の花であるサクラソウが咲き誇る時節に移ります。先日の雨から一転してさわやかな晴天となり、つがいのキジバトが日向ぼっこをして羽干し(寄生虫を取る効果があるという)をしていました。そのそばでは、亀も列をなして、甲羅干し(笑)