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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

生活世界の植民地化

 先日、埼玉障害者フォーラムの集まりに参加して講演し、津久井やまゆり園の事件から障害のある人の権利擁護をみなさんと考える機会を得ました。参加者の多くの感想は、およそ二つの点にあると感じました。

 一つは、津久井やまゆり園事件についての神奈川県と厚労省の「検証」報告書に対する疑問と憤りです。もう一つは、やまゆり園の施設再建をめぐる問題についてです。

 神奈川県と厚労省の報告書については、障害のある人の今後の人権擁護に資する教訓を汲みつくすことなく、施設の防犯体制と措置入院の問題に限定した検討に終始したものです。当初からこのように課題を限定した点について、何らかの隠された意図があると疑う人がほとんどでした。これらの報告書に納得している人は誰一人としていなかったという事実は、当たり前と言えば当たり前でしょう。

 やまゆり園の施設再建については、再建そのものに反対する人はいないものの、施設再建と再建される施設のあり方の決定過程についての異論はかなり目立ちました。

 施設再建に向けた議論の中で、知的障害のある人たちの意思決定支援を出発点に据えきれていないことへの疑問は払拭することができません。再建される施設のあり方、サービス内容と暮らしのあり方についても、障害のある人の意思に基づいて構想されたのかどうかに疑問が出されました。

 障害者権利条約の第12条や意思決定支援の重要性を改めて指摘する必要はないでしょう。また、知的障害のある領域は「親が邪魔をしている」との批判や、「知的障害の特質からいって、にわかには意思決定できない」とする見苦しい言い訳を繰り返すようなことも、百害あって一利なしです。親御さんをはじめとするご家族の方たちは、知的障害のあるお身内が安心できる生活にいち早く戻ることを一心に望まれていただけでしょう。

 ここではむしろ、知的障害のある人を取り巻く支援者が何をしていたのかが問われるべきです。施設再建の決定過程に意思決定支援を位置づけていくことの責任は、第一義的にはやまゆり園の指定管理者であるかながわ共同会にあったと言っていいからです。

 この例に限らず、障害のある人の意思決定支援に、支援者が鈍い反応しか示さない現実について、強い疑問を覚えることはしばしばです。さいたま市「誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」を作る過程で、市内の支援者、とりわけサービスの利用窓口に位置する相談支援専門員の皆さんには、すみやかに意思決定支援に取り組むことの重要性を私は指摘してきました。

 それから7年が経ちますが、取り組みはほとんど何も進んでいません。Nothing About Us,Without Us!だというのに、障害のある人の権利擁護の出発点に意思決定支援が大切だということが、支援者の取り組みとして速やかに進まないのはどうしてなのでしょうか?

 わが国の福祉サービスは、障害のある人たちに対して「二重の生活世界の植民地化」を進行させてきました。

 その一つは、長らく日本型福祉国家システムの柱であった措置制度に由来する生活世界の植民地化です。

 措置制度の下で福祉サービスを利用することは、職権行使に対する反射的受益です。障害のある人自身の権利行使によるのではなく、したがって、当事者のサービス請求権を国は認めたこともありません。ここに、制度サービスの下で障害のある人を常に「客体化」してしまう大本の問題があったのです。

 現在、虐待または不適切な行為の確認される法人事業所の多くに、「文句があるならうちを利用するな」という姿勢が陰に陽に残っているのは、障害者を支配して客体化する措置制度に由来するものです。

 もう一つは、障害のある人の意思を起点に据えた支援を原則としてこなかったことによる生活世界の植民地化です。障害者施設に入所してしまえば、本人の意にそぐわない支援や生活内容であったとしても、そこに異議を唱えることや施設・事業所を替わることはほとんど困難で、逃げ出すことさえままならない事態に追い込まれることさえありました。

 障害のある人の意思を起点に据えて支援と生活を作るのではなく、力の優位性を持つ支援者が障害のある人の日常生活世界を管理支配する傾きを払拭することができなかったのです。それでも、施設の創設者の多くが、恰も石井亮一か糸賀一雄であるかのような社会的振舞いをすることのできたかつての姿は、今から考えると本当に不思議でなりません。

 このような二重の生活世界の植民地化に対する支援のストラテジーは、基本的に二つでしょう。自分の意思を持てない剥奪された生活を余儀なくされてきた障害のある人をエンパワメントし、生活の主人公としての意思と自負心を持てるように支援することです。もう一つは、そのようにして形成された意思決定に基づく活動と参加を実現する道筋を障害のある人とともに切り拓くことです。

 だから、現在の支援者には意思決定支援に速やかに取り組む歴史的で社会的な責務があるといっていい。しかし、それでもなかなか取り組まない背後には、事態の本質を理解しきれない支援者の無自覚があるのでしょう。その無自覚は、障害のあるなしにかかわらず、私たちの日常生活世界そのものが深刻なまでに植民地化されている問題点にあります。

 私たちは、一方で、社会的なサービスのあり方について国の用意した内容と枠組みに恭順し、本来の市民性を委縮させています。他方では、衣食住の基本を市場から調達することを当たり前とする生活世界に埋没し、巨大な市場の中で無力な消費者となっています。

 社会的なサービス(教育・医療・保健・福祉等のすべてを指しています)のあり方は政府に支配され、家族の暮らし向きは市場に支配されることによって、私たちの生活世界そのものが丸ごと、二重の植民地化によって抑圧されています。

 介護・福祉サービスのあり方は、自治体ごとのプランニングとネットワークを柱に進めることになっていますが、ここに当事者の参画が内実をもって進んでいるという自治体はどれほどもありません。ここでは、特に高齢者と子どもたちの計画領域における参画があまりにも立ち遅れていることを指摘しておきます。

 日々の食事の中に「わが家の味」を維持・発展させている暮らし向きは、ごく少数のものとなりました。普段のおかずはスーパーかコンビニの惣菜となり、子どもの弁当の中は「わが家の鶏のから揚げ」に替わってニチレイか味の素のそれが陣取るようになりました。

子どもの弁当が丸ごとコンビニ弁当になっているケースも、珍しくなくなりました。

 家庭生活において、それなりに美味しいと感じる「鶏のから揚げ」や「弁当」を市場から調達できさえすればいいとするのは、障害者権利条約の指し示す権利の保障ではありません。どのような唐揚げを食べたいのか、味付けに素材から調味料のあり方まで自ら決定し、必要に応じて、自ら調理して味わうところまでを主体的に参加して実行できるように支援することができてはじめて、権利擁護といえるのです。

 私たち自身が、自分の生活世界に対する自律性と創造性に基づく能動的参加権を行使しているのかどうかが問われているのです。支援者自身が自らの日常生活世界の植民地化に抗して、明確な課題意識を持ち切れていない点が、障害のある人の生活世界の植民地化についての鈍感さとなって表れ、意思決定支援に取り組み切れない脆弱さにつながっています。

わが家のう巻き

 さて、関西では、家庭料理としても、商品としても、ごくありふれたメニューである「う巻き」。ところが、関東ではあまり見かけないし、東日本出身の学生に尋ねてみると、う巻きをそもそも知らないことが分かりました。そこで私は、大阪人にふさわしい健康で文化的な生活を営む権利の一環として、自らの意思決定に基づいてう巻きをつくり、「たまにはう巻きを食べる」権利を行使しています(笑)