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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

支援現場の「分断世界」

 昨日の朝日新聞朝刊は、「分断世界」という随時掲載の特集のはじめとして、津久井やまゆり園の事件を取り上げました。「孤立の末に弱者排斥」まで行き着いた犯人を産みだす社会的背景と心の運びの闇を報じています。

 「他者と深く関係を築けず、一方で極端な被害妄想や自己陶酔を抱く人たち。『自分が受け入れられないのは、社会が悪いからだ』という思いがネット上の優生思想や、過激派組織『イスラム国』(IS)などの論理と共鳴する。」(同新聞より)

 自らが社会的に抑圧され従属的な状況に追い込まれると、他者に対する力の優位性を持った支配者の側になろうとして、社会的弱者を抑圧のターゲットにする。「支配-従属」の関係構造を無間地獄のように再生産し続ける「呪いの連鎖」です。

 そこで、同種の事件が発生したノルウェーは、「さらに寛容な社会をつくる」民衆的なムーヴメントを強めることによって、むしろ、国と社会の、弱者排斥や差別を克服する歩みを揺るぎのないものとしてきました。

 ところが、「相模原の事件では、容疑者の異常性が注目を浴びる一方、措置入院のあり方や、障害者施設の防犯対策が優先された」(同新聞)のです。

 この新聞記事の中で私が注目したのは、和光大学名誉教授の最首悟さんのコメントでした。ダウン症で重度の複合障害のある三女と暮らす最首さんは、相模原事件の植松容疑者を「個人になり損ねた孤人」として、「社会との絆を失った『孤人』のよりどころは、国家へ向かう。国家や社会の『敵』を倒すことで、英雄になろうとするんです」と。

 「弱者を『国家や社会の敵』とみなす空気。私たちの周りに漂っていないか。」と同記事は指摘します。

 これらのコメントから、私には気になる論点が二つあります。

 一つは、弱者排斥と差別を強めようとする「孤人」が、いきなり「国家」に向かうという点です。「個人と国家」という19世紀的枠組みの言説が展開されています。障害者差別を国の法制度と障害のある個人との関係で立論する人たちにも同様の時代錯誤が存在します。

 「個人と国家」の狭間には、インフォーマルなネットワークがあり、さまざまな対人支援の社会資源と社会的ネットワークがありながら、事件を防止するための機能と役割をほとんど全く果たせなかったのはなぜか。

 この点は、措置入院制度に狭く限られた問題ではありません。「孤人」を大量に産出している家族・地域社会・学校・社会福祉施設等・民間企業・役所・裁判所の社会資源等のあり方そのものに検討すべき課題があるのです。15~39歳まで年齢層に限っても、54万人もの「引きこもり」を産んでいるのですから。

 もう一つの論点は、元施設職員による事件であることにかかわって、社会福祉施設・介護施設等の支援現場に巣食う構造的な問題が何も論じられていない点です。今回の事件を「個人と国家」に枠づけて論じようとする傾きは、支援現場の構造的問題を正視せずに検討を尽くそうとしない傾きにつながっていると考えます。

 かつて私が実施した障害者支援に携わる現場職員の調査(『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』、2008年、やどかり出版)では、勤続年数が長くなるとある種の虐待または不適切な行為について、「やって当然」とする人権感覚のマヒが発生することを指摘しています。

 この一年の間も、いくつかの虐待事案に詳しく関与することがありました。その中には、たとえば、100人の障害のある利用者を前にして95人は何とか支援が成立しているものの、残りの5人は例外として「拘束」や「体罰」を行うことを日常化しているタイプの虐待がありました。

 もっとも、95人の「何とか支援が成立している」実態の内訳は、「適切な支援」、「当たらずとも遠からずの支援」、および「外れ気味ではあるが大きな問題には至っていない支援もどき」のいずれかに収まっているだけで、すべてが適切な支援であるわけではありません。

 ところが、人間が100人もよれば「5人くらいは扱いの厄介な人がいるのが当たり前で、95人には何とか支援しているのだから、5人についてはあくまでも例外的に『拘束』や『体罰』をしているに過ぎない」となるのです。

 もし、このような「例外」を認めないとすれば、支援現場の秩序が保てないため、この例外を「虐待だ」ということこそ「支援現場を知らない非現実的な考えだ」と確信しているのです。

 このような少数者を例外扱いに囲い込むことによって発生する差別・虐待は、あらゆる就業の場、学校、社会福祉施設、友だち関係に発生しています。「ハラスメント」「体罰」「虐待」「いじめ」としていたるところにはびこっているのです。マジョリティを味方につけた上で行使される虐待である分、「例外」的少数者にはなす術をなくしています。

 このような「支援」現場の論理を展開していくと、「厄介な程度」によっては「力によって抑圧する」ことが正当化されますから、植松容疑者の論理と本質的には何も変わらないのです。

 このような事業所の幹部職員と植松容疑者との違いがあるとすれば、「例外的な拘束・体罰」が大っぴらに虐待認定されるのはまずいと自覚しており、「虐待とまではいわれないよう、虐待通報されないように注意する」点でしょう。ここで、内部の職員が通報でもしようものなら、「見せしめ」として損害賠償請求の裁判をおこすのがこの手の輩ではないでしょうか。

 暮らしのただ中で、支援のプロセスの中で発生している弱者排除のミクロポリティクスに、支援現場はもっと注意深い検討を重ねるべきだと考えます。そのような営みこそが、支援者と障害のある人の孤立をともに排除し、障害のある人と共に地域社会を生きる人権擁護の発展につながるものだと確信します。

厳寒の中の朝日

カマキリの卵

 さて、寒さが一段と厳しい季節になりました。北国の支援者から雪景色に生える朝日の画像を頂戴しました。厳寒のさ中にも太陽の光は希望の未来を信じさせてくれますね。わが家の梅のつぼみが膨らんできているなと思って見つめていたら、「あっ、カマキリの卵!」。
身近なところで間違いなくつながっている希望と命。

 みなさん、どうか良いお年を。