宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
高知の青空の下で
先週は、高知県知的障害者福祉協会の施設長・幹部職員研修会に講師として参加しました。この間、関東から北海道が台風の通り道となって、ずっと雨が降り続いていましたから、高知の青空と青い海を見るだけで心は晴れます。
この研修で頂戴したテーマは、「なぜ虐待をしてはならないのか」。当たり前のテーマのようですが、このテーマに答えることは容易ではありません。私自身が考察途上の課題ではありましたが、皆さんと一緒に考える機会にしようと臨みました。
虐待防止法が成立施行されたから、障害者権利条約の第16条に明記されているから、施設従事者等による虐待の場合は行政から何か言われるから等、自分たちの外からの要請や縛りによって「虐待をしてはならない」とするのでは、真の虐待防止にはたどりつけない。
すべての支援者が、とくに支援事業所の幹部職員が、自分たちの内在的な価値規範・行動規範の課題として「なぜ虐待をしてはならないのか」「何を目標に支援をしているのか」について深く理解できていなければならない。そのための企画でした。
確かに、名ばかりの「虐待防止研修」が横行しています。「虐待とは何か」を概念的に説明することなく、虐待防止法と国のマニュアルから「虐待の定義」を説明する。そして、「虐待に至らない」ためのサインのあれこれに、スキルや方法を解説する。
もしこれで、虐待防止の取り組みにつながると考えているのであれば、能天気の極めつけというほかありません。ここには、虐待という事象に対する表面的理解と、虐待防止の取り組みに関する「つまみ食い」程度の知見があるだけです。
子ども虐待の由来が、フィリップ・アリエスの指摘する「子どもの誕生」にあるという議論は、これまでに相当に深められた見解です(フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』、みすず書房、1980年)。アンシャンレジームから近代以降への移行期に、子どもが社会から切り離されて「家庭」と「学校」に囲い込まれていったことが、虐待に通じるストーリのはじまりです。
本来であれば、もっとも安心できて、慈しみ合いに包まれて、落ち着くことのできるはずの「家庭」と「学校」が現代の子どもたちの「居場所」ではなくなり、「家庭」と「学校」以外の「居場所」づくりを社会的な課題としなければならないパラドックスが出来する起源です。
このような虐待の生成・発展のメカニズムを、わが国の近代化の特質を踏まえて考察する課題に虐待研究の核心があると私は考えています。とくに、明治以降のわが国における家族は、前近代的な家父長制の枠組みを明治憲法によって維持しながら、戦後の日本国憲法の下で急速な変容をみせていくことになります。
1970年代の中盤からは、それまでの見合い結婚に代わって恋愛結婚から形成される近代家父長制家族に変貌し、1980年代半ばからは、男女雇用機会均等法と男女共同参画の推進によって、家族の定型が解体されていきました。
前回取り上げた子ども虐待の深刻化は、少子化によって子どもの絶対数が減少する中で進行しているのです。以前にもまして、政府と社会は子どもたちを大切に慈しむことのできる客観条件を持っているはずではないのでしょうか。
ところが、単親家庭の増加や、貧困や障害が交錯すると、不適切な養育に虐待を含む、多様な支援課題が発生することになります。現代の格差拡大によって、相対的剥奪がより深刻になったと同時に、家族の液状化が進行してきた点に、これまでの経験値が無効にならざるを得ない問題点を含んでいるのではありませんか。
以上に加え、虐待防止の取り組みを進めていくプロセスにおいて、それぞれの人のインテグリティの輝きをどのように構想するのかという重要な論点があります。
障害者権利条約第17条で指摘されるインテグリティの保護とは、社会的インクルージョンの実現(同第19条)とともに、人と人との慈しみ合う間でこそ「人間」としての輝きを作ることができることを指し示していると言っていいでしょう。
さて、わが国における介護・保育、そしてほとんどの障害福祉サービスは、ある程度までは家族が支援機能を有しているという前提で成り立ってきた代物です。今日において未練がましくも、家族と地域社会が支え合う機能を発揮することに政策的な期待があるようですが、ここに政策の柱になりえるようなリアリティは丸でありません。
子育て期の家族を丸ごと支えるとともに、若者の正規雇用と社会への参画の保障を社会的に支える施策が必要不可欠です。このことが客観的に必要であるにもかかわらず、いまだに「親-子」というタテの関係を基軸に生活を組み立てようと強迫的に努力するところに、虐待を含む様々な歪みが出来しているように思えてならないのです。
女優Tさんの息子である俳優が強姦致傷罪で逮捕された一件で、母親のTさんが記者会見を開きました。さぞやお辛い心境だと察しますし、芸能界ならではの業界事情もさまざまにあると推察します。
母親であるTさんへの励ましの思いとは別に、すでに成年になった子どもの事件で謝罪し、これらからも一緒に乗り越えていくという内容で語られるわが国の親子文化については、私には奇異に感じられます。親としての痛みを含む複雑な心中は続くとしても、「息子はすでに大人ですから、罪にふさわしい社会的責任と被害者に対する責任を本人が負って当然です」という内容で十分ではないか考えるのです。
これに対して、一部の芸能人から「親だったら、もっと叱るべきだろう」との発言が相次ぐ上に、記者会見ではフリーアナウンサーのO氏が「性欲が強いとか、性的嗜好がおかしいということはあったか」という質問をメディア・スクラムのただ中でしています。この発言は、人間的品性の点で下劣極まり、報道倫理のイロハのイにも欠如するため、O氏は芸能ジャーナリズムから退場するべきでしょう。
これらはいずれも、生涯にわたって「親-子」関係のユニットに囲い込まれて責任を問われる構造を端的に示すものと言っていいでしょう。このような構造そのものの中に、愛情の強迫化と共依存が成立することは間違いありません。
私の子育てでは、思春期から「親であること」からのフェード・アウトを計画的に実行していました。もちろん、一筋縄でうまくいくものではありませんが、子育てに縛られ続けるのではなく、親が自分の自己実現を仕事を含めて追求する日常が、子どもの思春期以降には必要だと考えていました。
そのときに、娘が作って私の書斎に張りつけたものが「父ど~こ」掲示板です。チビは当時わが家で飼っていた犬のことで、チビの欄はチビの肉球を型押したものです(笑)