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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

ケース・カンファレンスをしていない―虐待の発生する施設

 鳥取県立鹿野かちみ園(指定管理者の鳥取県厚生事業団が運営。鳥取県厚生事業団は、一般に言う社会福祉事業団)で、40~60代の女性3人に対し、入所時から3~20年間にわたり、個室に施錠する拘束を続けていたことが明らかになりました(6月16日の朝日新聞と毎日新聞の朝刊から)。

 この内、60代の女性は、他の入所者の個室に入ってマグネットなどの小物を食べる「異食行為」を防止する名目で、約20年間、1日当たり10時間の拘束を受けていました。

 40代の女性は、他害行為を理由に約7年間、暴力行為はここ数年落ち着いていたにも拘わらず、1日14時間の拘束が続けられていました。もう一人の40代女性も、他害行為を理由に、約3年間、1日6時間半の拘束を受けていました。

 これらの女性が拘束を受けていた個室には、トイレはありません。拘束という究極の社会的排除と排泄する自由さえ剥奪しているのですから、監禁と拷問に近似する場面さえあったと考えることが妥当です。継続的な「拘束」をときとして「止むを得ない」と主張する施設関係者の認識は、惨い人権侵害を当然視する点で深刻かつ下劣です。

 さて、小林真司・鳥取県障がい福祉課長は、「職員に虐待という認識はなかった」が、慣習的に「漫然と施錠を続けていた」と発言しているようです。

 それでは、「止むを得ない場合の身体的侵害・拘束等」について、「切迫性」「非代替性」「一時性」の3要件すべてが条件であることを、鹿野かちみ園の施設長・サービス管理責任者・職員(これらの中に、有資格者は大勢いるはずです)の誰一人として認識していなかったとでもいうのでしょうか。

 障害者総合支援法に基づく「障害者支援施設の設備及び運営に関する基準」第39条で「身体拘束の禁止」が明記されていることさえ自覚していない「厚生事業団」を指定管理者にしたのは、一体どういうわけなのでしょうか?

 支援と運営基準のイロハを知らずに「虐待の認識はない」という施設の実態は、法に基づく施設といえるのか怪しく、もはや「ブラック施設」と言うべきなのではありませんか。

 社会福祉法による実施体制以降の問題も明白です。全国各地の県立施設(直営のほか、指定管理者である社会福祉事業団運営もある)は、「処遇困難ケース」を入所させ支援することを条件として存続を認めてきた経緯のあるところがほとんどです。その一方で、社会福祉法施行の2000年度前後から、支援条件である職員の配置・待遇は社会福祉法人一般と同等となるよう低きに合わせ、さらに「常勤換算」方式で非正規雇用職員による頭数合わせをしてきた経緯のあることは、明らかな事実です。

 このような状況に、障害者支援施設の構造的な管理運営の問題が交錯して、虐待防止の取り組みの進まない事態が深刻化しているのではないでしょうか。

 たとえば、虐待事案の発生する施設の言い訳に、強度行動障害、異食、他害行為、自傷行為等が使われるのは、かなり共通した事実です。私が、虐待対応や虐待の発生した事業所に直接関与したところのすべてにおいてもそうでした。

 ところが、驚いたことに、これらの虐待事案のすべては、身体的侵害や拘束をする必要がそもそもなかったことを私は確認してきたのです。私から見れば言い訳に過ぎない強度行動障害・異食等が、虐待事案の発生する施設では、どうして法や基準を捻じ曲げてまで「止むを得ない拘束」という事態になってしまうのか。

 これらの事業所は、処遇困難ケースの支援の向上に資するケース・カンファレンスを真剣に取り組んでいないのです。このようなケース・カンファレンスを進めるためには、「現状を変えなければならない」事実認識と視点、正確な観察記録の具備、支援者職員への専門的自治の保障とケース・カンファレンスを主導する能力のある管理職のいることがセットになっていることが絶対条件です。

 しかも、このようなケース・カンファレンスに求められる「専門性」は、学際的で高度な内容に、現場職員のひた向きな努力に、際限のない性格を帯びるでしょう。

 実際、私が昨年度から参加している高知のあじさい園の虐待防止研修は、幹部職員から現場職員がみんなで参加することを前提に、まずは処遇困難事例の事実確認と分析に時間をかけ、一日かけてようやく、一歩事態を改善する支援の手立てを明らかにする作業をしています。

 障害のある人と支援者の間柄が、支援者にとっては「時間をかけて築き上げた関係」と捉えられていても、みんなで検討を重ねていくと、「力を押し合う関係を基軸とする不適切さを含む相互作用の悪循環」と分析されることもあるのです。

 つまり、教科書的な知識からは明らかにすることのできない、生きものとして支援、生の障害のある人のニーズを、個別具体的に分析することが何よりも大切です。ここではそれぞれの支援者の経験値がときとして邪魔者となることさえしばしばで、みんなの知恵と客観性を撚り合わせながら進める緻密な検討が求められます。

 インターネットの書き込みの中には、虐待認定を当然とする意見もたくさんある一方で、「異食を理由とする拘束が虐待というのなら、どうすればいいのかもいうべきだろう」という意見も数多く見受けられます。もし、後者の書き込みが現場の支援者によるものだとすれば、いかに処遇困難事例についてのケース・カンファレンスをしていないのかを反映した意見ではないでしょうか。

 「異食をしないようになる」という目標に現実味がないのであれば、「異食をしないようになる環境をつくる」という合理的配慮のあり方を検討する方向もあります。もちろん、この両面を組み合わせる方針もあるでしょう。

 施設内の空間すべてを異食できない環境に変えることは不可能であっても、あるスペースを区切って合理的配慮を徹底すれば、この範囲内で行動の自由を保障することに展望を拓く可能性が出てくることもあり得ます。

 異食や他害行為の引き金や目的にそれぞれの人固有の特徴は確認されなかったのか、これらの問題行動が多発した日にはどのような事情があったのか、逆にこれらの問題行動が少なかった日にはどのような事実が確認されるのか…。これらのことを一つ一つ丹念に確認して、支援を改善するための検討努力は、すべての障害者支援施設に求められる当たり前の営みです。

 それを「20年間」することなく、「漫然と拘束していた」というのは、支援施設・支援者の言い分ではなく、強制収容所とその管理人のような態度といわざるを得ません。

 国立秩父学園のスヌーズレンの一部に庭があり、ここに植栽されているもののすべてが食べても大丈夫なもので構成されている取り組みもあります。このような先進例を学びながら、異食ケースにより有効な支援を検討した成果のかけらさえ何一つありません。

 ケース・カンファレンスをまじめに実施しない背景には、施設業界ならではの問題もあります。わが国の施設長の大半は、公開の場での事例研究を発表して批判的検討をくぐるという経験を基本的にはしていません。内輪同士や同じような「立場」の狭い業界団体でお茶を濁しているのが関の山です。

 全国の処遇困難事例に関する取り組みからデータベースをつくることと、すべての施設の管理職に処遇困難事例のケース・カンファレンスの研究発表を義務化することを一体にした国の施策が必要なのではないでしょうか。現場任せの虐待防止の取り組みだけで、障害のある人の人権擁護を前進させることには限界があると考えます。

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