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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

見通しの剥奪

 スーパーマーケットの売場ではたと困った経験はありませんか。売場のレイアウト、ディスプレイ、取り扱う商品・メーカーなどが、ある日突然変更されていて、購入予定の商品のありかが分からず店内をぐるぐる歩きまわったり、これまでいつもあった商品が消えていて途方に暮れるなどです。

 なぜ、このような売場の変更をするかは、私にはよく分かりません。取扱商品やメーカーの変更は、販売促進費の多寡や仕入れ値をめぐってメーカー間の競争をやらせ、スーパー側の利益の最大化をはかる手立てだろうと推測します。消費者主権なんてのはしょせん戯言ですから、客のニーズより店のそろばん勘定が先にくるのは当たり前のことなのでしょう。

 しかし、どうしても理解できないのが売場のレイアウトとディスプレイの変更です。共働き世帯が一般化し、保育所に子どもをお迎えに行った帰り道に買い物をする親御さんはたくさんいます。時間貧乏のさなかで家事・育児を営むとすれば、買う側の都合と見通しを狂わしてほしくないというのが本音ではないでしょうか。

 たとえば、かつて子育てをしていた頃の私の夕方は、次のようなことの運びでした。

 まず、仕事に区切りをつけて職場を出て、保育所や学童保育のお迎えに行く車の中で、冷蔵庫に何が残っているか、今晩と明朝の献立をどうするか、切れた調味料はなかったかなどを、頭の中でグルグルグルグル考え抜いて、帰り道に立ち寄るスーパーで何を買い足すべきかを特定します。

 次に、スーパーの駐車場に着いて店の入口に向かう段には、野菜売り場の「キャベツ、ニンジン、牛蒡、里芋」からはじまって、納豆、コンソメスープの素にスパイスのイタリアンパセリ、牛乳、生クリーム小…等々と、買い物をするさまざまな商品の売り場を考え、店内を移動する道順を頭の中で完成させるのです。そしていよいよ、入口で店内カゴを取り、いざ出陣。

 ここで、お店の売り場のレイアウトとディスプレイが突然変更されていた事態に直面すると、はらわたの煮えくり返るような想いがふつふつと込み上げてくるのです。忙しい合間を縫ってスーパーに飛び込む客の都合を一顧だにしないスーパー業界の不見識に怒りが収まりせん。「責任者出てこい!」

 ここで、商品棚に商品を足したり整理したりしている店員さんを見つけ、「スパイスとコンソメの素の売り場はどこにいったのですか?」と堰を切ったように尋ねたところが、店員も分からないから「ちょっと待ってください」と他の店員に訊きに行くような運びともなると、やり場を失った怒りは大爆発を起こします。スーパーの店員は非正規雇用が多く、サービス残業の隠蔽も多い業界ですから、売り場の全体に責任をもって仕事をしている店員さんはほんの一握りしかいないのでしょう。

 このような目に遭うと、売り場のレイアウトや取扱商品の安定しているお店で優先的に買い物をしようと考えるようになります。残念ながら、そのようなお店は少数派で、多くのスーパーには、どうもレイアウトや商品の変更をよしとする「信仰」の呪縛があるように思えてなりません。

 売場のレイアウトや取扱商品の変更は、客の見通しにとっては不合理な性格を持つのに、スーパー業界の当たり前の営みとなっているのはなぜか? スーパーは、取扱い商品のメーカーや生鮮食料品の産地に対しては、固定することなく常に競争をさせて自らが優位な立場に立とうとし、客に対しては、目先を変えながら売り場全体の利益率の最適化を図るためにレイアウトと取扱商品の変更をしているのでしょうか。

 つまり、メーカーや生鮮食料品の産地生産者にも、消費者にも安定した見通しを与えないことが、自らの優位性を確保する有効な手立てだということになります。このような流通主体のビジネスモデルは、関係者すべてが常に不安定さの中に身を置くことになりますから、○○コンサルタントや××マネジメントの寄生的な輩にだけにビジネス・チャンスが増大したりするのですね。

 さて、この8月から介護保険制度の「改正」による様々な負担増が始まることになりました。インターネットで検索すると、多くの自治体が自治体ごとの保険料の変更、サービス利用料2割負担の該当者、特別養護老人ホームの入居費の算定方法の変更(利用者によっては倍額に)などをこれまでになく丁寧に解説するコーナーを設けています。介護保険ユーザーにとっては、大幅なレイアウトと値段の変更が実施されるのです。

 高齢者が介護保険サービスを利用するのは、日々の暮らしと健康維持の必要からのものです。つまり、介護保険サービスは高齢者にとって、水や空気と同様の命綱であり、家族を含めた生活基盤の確保にも必要不可欠です。利用料が上がるからといって稼働収入を増やすことのできない高齢者に対して、介護保険サービスのレイアウトとお値段の見通しを剥奪するというのは、いかがなものでしょうか。

 スーパーの売り場のレイアウトと取扱商品の変更で怒り心頭に発する私は、さぞや怒りの収まらないお年寄りがたくさんお見えになるのではないかと想像してしまいます。

 社会保障制度は、様々な立ち位置で暮らす国民それぞれにとって、自らの生活と人生を設計するための拠り所です。この制度的基盤を2000年介護保険法施行以来、制度根幹のポリシーを含めて、ころころと変更すること自体が実は重大な生活破壊であり、人権侵害なのではないでしょうか。

 7月20日の朝日新聞朝刊で「介護保険負担増の夏」と題した記事の最後に、あるライフ・プランナーが登場し、「改正を機に高齢期のライフ・プランを改めて考えなおす必要が出てくるだろう」とコメントしています。要するに自分のビジネス・チャンスなのだというコメントを発するライフ・プランナーの粗雑な精神は、私にはさっぱり理解できません。

 近年の年金・医療に介護保険の制度運用の実態からすると、少なくとも2年に1回は「ライフ・プランを改めて考え直す必要」に迫られるのではないでしょうか。つまり、高齢者は一向にゆたかにならないけれども、プランナーやマネジャーの寄生的な輩のビジネス・チャンスだけは拡大しながら延々と続いていくという仕組みなのです。

 このような制度運用は、福祉・介護サービスを提供する事業者や職員に対しては、常に事業基盤を動揺させシャッフルすることによって「競争」を強い、国と保険者が常に優位な立場にあり続ける一方で、多くの国民に対しては生活と人生への見通しを剥奪することによって諦観の日常へと追い込んでいるのではないかと考えます。

カブトムシ♂

 さて、わが家の狭い庭にカブトムシが突然3~4匹やってきました。何が目当てなんだろうと観察してみると、地面に落ちた桃の実の果汁をせっせと飲んでいます。私は思わず「どうぞ、さあどうぞ」と。桃の場所を変更したり取り上げたりして、カブトムシ君たちの食生活の見通しを剥奪する何てことは私にはとてもできません(笑)。